天然痘による壊滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 07:56 UTC 版)
1804年、ルイス・クラーク探検隊の一行が彼らの土地に足を踏み入れ、ここに「マンダン砦」を築き、ひと冬を過ごした。これがマンダン族(ヌマカキ族)の最初期の白人との接触といわれるが、一部の歴史家は、コロンブスの上陸以前に、すでにマンダン族とヴァイキングとに接触があったとしている。 1837年、白人との交易が仇となり、彼らの持ち込んだ天然痘およびコレラの大流行によって壊滅状態となる。定住生活であったため、伝染病の蔓延にひとたまりも無かったのである。 ヒダーツァ族が1845年に移ったナイフ川の地域からマンダン砦のベルトールの交易所にかけ、少数のマンダン族も合流した。 1851年に、アメリカ連邦政府は「ララミー砦の条約」で、49,000km²の土地をマンダン族、ヒダーツァ族、アリカラ族のMHA三大部族の不可侵占有領土として条約で確約した。 1870年、4月12日、アメリカ連邦政府は大統領命令により、「ベルトホールド砦保留地(Reservation)」を設立。不可侵条約を破って、彼らの領土を32,000km²に減らした。 1880年、7月1日に、アメリカ連邦政府はさらに不可侵条約を破って、この保留地から28,000km²の土地を没収した。 1910年までに、彼らの保留地は分割没収され続け、「ララミー砦の条約」で「不可侵の土地」と約束された面積の1/10以下である3,600km²まで縮小された。
※この「天然痘による壊滅」の解説は、「マンダン」の解説の一部です。
「天然痘による壊滅」を含む「マンダン」の記事については、「マンダン」の概要を参照ください。
- 天然痘による壊滅のページへのリンク