大辺路の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/01 05:38 UTC 版)
大辺路の名は近世初期の笑話集『醒睡笑』(1623年,元和9年)にて小辺路とともに難地の道として登場する。同時期の成立と見られる説経節『をぐり』にも大辺路の地名が登場し、難路と述べられている。また、元禄14年(1701年)に中辺路から大辺路を巡った風狂子なる僧が参詣記『熊野独参記』のなかで、大辺路を昔の参詣道であると言及しているほか、西行が塩浦崎の歌を残しており、歌枕にも大辺路に関連する地名が見られる。また、当山派修験(醍醐寺三宝院門跡)の記録からすると室町時代末には開削されていたことは間違いなく、これらから、少なくとも中世末期にはルートが確立し、その名が知られていたことが判明する。 同時期はまた、中辺路・小辺路の称が確立し、それまで紀伊路と一括されていた畿内からの参詣ルートが区分されてゆく時期でもある。これは、中世熊野詣を主導した熊野修験の勢力の衰退と、それに伴う独占的な熊野参詣経営の後退が、参詣ルート管理の弛緩を生じさせた現れと考えられる。
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