大田原氏の独立とは? わかりやすく解説

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大田原氏の独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 17:18 UTC 版)

大田原晴清」の記事における「大田原氏の独立」の解説

永禄10年1567年)、大田原綱清の子として誕生天正13年1585年)、那須資晴宇都宮国綱との戦いである薄葉ヶ原の戦いで父・綱清や弟・増清と共に参じたのが初陣天正18年1590年)に大田原氏家督を継ぐ。同年小田原征伐参じる為に駿河国沼津豊臣秀吉謁見した際には、弟・増清が既に豊臣秀吉謁見済ませていた事もあって主君那須資晴所領没収され、他の那須七騎諸氏減封処分を受ける家が出る中で大田原氏は7,100石の所領安堵された。この時に秀吉より備前国勝光・宗光両作の太刀賜った事から備前守称した小田原落城後は降服した成田氏長忍城接収の任を浅野長政属して務めた戦後、晴清は遅参の罪を問われ所領没収され那須氏再興願い出る為、資晴の息子・資景(王丸)を伴い奥州仕置中途大田原城着陣した秀吉陳謝し、その甲斐有って那須資景新たに秀吉から5,000石を与えられ那須氏小さいながら領主として復活する事が出来た文禄元年1592年)の文禄の役の際には名護屋城まで出陣した渡航はしなかった。

※この「大田原氏の独立」の解説は、「大田原晴清」の解説の一部です。
「大田原氏の独立」を含む「大田原晴清」の記事については、「大田原晴清」の概要を参照ください。

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