大江御厨惣官と滝口武者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 00:27 UTC 版)
渡辺綱の曾孫にあたる伝は、武家(軍事貴族)として、白河院より皇室領である大江御厨惣官に任じられて(渡辺惣官職)、京都では内裏で天皇の警護(後世の近衛部隊に相応する)に就く滝口武者を世襲し、他にも衛門府、兵衛府など中央の官職を有していた。渡辺伝の子孫には三つの流(満・重・房)が存在したことが知られており、中央の官職に就けなかった庶流が摂津源氏の郎党を構成していたとみられている(伝の嫡流であった満流は院権力と直接関係を強めていったため、摂津源氏との直接的な結びつきは希薄であった)。 満の弟の重、房の系統は、従来通り摂津国渡辺津に拠る源頼光の後裔の源頼政の郎党として、保元の乱において、多くの渡辺氏一族が参陣しており、頼政・仲綱父子の反平家蜂起の宇治川合戦において平家の平知盛が率いる大軍と戦って、省(連)、学・授・与(與)・広兄弟(省の子)、唱、競、馴(競の子)、加(伝の弟の至の孫、双の子)、注・仕・向・任・儲・抑兄弟(加の子)と於・契(双の甥)、譬・騒・習兄弟(於の子)ら多くの渡辺氏一族が討死している。 満の弟の重と親の系統から鎌倉幕府の御家人から地方に赴任して、地頭職に就いた越後国の赤田氏、瓜生氏らが輩出した。
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