大崎氏の没落と伊達氏の探題就任
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「奥州探題」の記事における「大崎氏の没落と伊達氏の探題就任」の解説
大永11年(1514年)、伊達稙宗が陸奥国守護職に任ぜられた。これにより、大崎氏が世襲する奥州探題制は無力化し事実上終焉する。その後伊達氏は大崎氏を武力で圧倒して支配下に置くようになる。 戦国時代にも幕府の形式的な職として存在し弘治元年(1555年)には稙宗の子・伊達晴宗が奥州探題に任じられた。異説として、晴宗の探題就任を永禄2年(1559年)とする説もあるが、この異説も大崎氏から伊達氏への交代となるため、幕府が慎重な任命手続を取ったために任命が遅れたというもので、実質においては弘治元年の段階において晴宗は探題と同格の待遇を受けていた。 室町幕府滅亡後に当主となった伊達政宗(晴宗の孫)も奥州探題を自称した。天正18年(1590年)、政宗は豊臣政権に臣従して奥州探題の称号を返上し、一方、臣従を表明しなかった大崎氏は豊臣秀吉によって攻め滅ぼされた(奥州仕置)。これによって奥州探題制は名実ともに終焉した。 また、斯波家兼の子斯波兼頼は正平年間(1346年 - 1369年)ごろに出羽国按察使として出羽に下向したという。後に羽州探題と呼ばれ、子孫は最上氏と称した。
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