大凌河城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 06:16 UTC 版)
1631年8月錦州の前線基地の大凌河城を攻めた。それまでは梯子をかけて斬り込む作戦を取っていたが、この戦いでは兵糧攻めを採用した。明軍は完全に身動きが取れなくなり、敵将袁崇煥の部下の祖大寿が10月に清に投降した。この時、ホンタイジは祖大寿を抱擁して籠城の苦労をいたわった。ホンタイジは祖大寿に錦州城の攻め方を聞くと「自分が投降したことを隠して錦州城に行き、金軍が攻めてきたときに城内で呼応する」と提案した。ホンタイジはそれを信じ、祖大寿とその弟祖大楽を錦州城に行かせた。実はこれは策略であり、ホンタイジを欺くものであった。ちょうどその頃、毛文龍の副将だった孔有徳、耿仲明は大凌河城救援を朝廷から命じられた。彼らは毛文龍を敬愛しており、毛文龍を処刑した明に叛旗を翻した。しかし明が察知して逆に撃退され、2人は逃亡した。1633年5月、船数百隻と共に2人は清に投降した。ホンタイジはこの知らせに大いに喜び、彼らに接見した時に抱擁して迎えた。また1633年10月、毛文龍の副将の尚可喜も帰順した。この3人は大砲、軍船を持参しており、後金軍の作戦に大いに役に立った。この3将は朝鮮や、入関戦争でも活躍し、後に王号を授けられて、漢三王と呼ばれることになる。しかし敵将袁崇煥の知るところとなり、敗退した。
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