大内・尼子との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 20:08 UTC 版)
弘治元年(1555年)、厳島の戦いにおいては吉川軍を率いて小早川軍と協力し、陶晴賢率いる大内軍を撃滅した。弘治2年(1556年)からは石見国に遠征し、尼子晴久と何度か戦うも晴久に退けられる(忍原崩れ、降露坂の戦い)。弘治3年(1557年)に父が隠居すると、隆景と共に両川として毛利家を実質的に支えることとなった。 永禄5年(1562年)、元春は胸部や腹部の激痛を伴う積聚の病(いわゆる癪)にかかり、毛利元就は則阿や少林寺、楊井武盛といった専従医ではない、領内の医師を動員して元春の治療にあたらせ、さらに京都の医師・大和晴元を新荘火ノ山城へ往診に向かわせ元春の治療にあたらせた。 永禄8年(1565年)、第二次月山富田城の戦いでは主力として参戦して武功を挙げ、永禄9年(1566年)に尼子義久を降伏せしめている。 しかし、永禄12年(1569年)からは尼子氏再興を願う尼子家旧臣の山中幸盛ら率いる尼子再興軍と戦うことになる。布部山の戦いで尼子再興軍を撃破するも、同年には毛利家と敵対する大友宗麟の下に寄食していた大内氏の一族・大内輝弘が周防国に侵攻してくる。これに対して軍権を与えられていた元春は、大友家の援軍が十分に集っていないうちに輝弘を攻めて自害に追い込んだ。(大内輝弘の乱) 元亀2年(1571年)には謀略を用いて尼子勝久の籠る末石城を攻撃。山中幸盛を捕虜とし、勝久を敗走させたのである(その後、幸盛は謀略を用いて脱走)。
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