多国籍軍撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:33 UTC 版)
さらに、1983年4月18日にはアメリカ大使館に対する自爆攻撃が発生(アメリカ大使館爆破事件 (1983年))し、10月23日には海兵隊駐屯地が襲撃され、シリア軍との戦闘にまで発展した(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)。続いてフランス軍、イタリア軍の駐屯地、イスラエル軍の指揮所にも自爆攻撃が仕掛けられた。これらの実行犯は当時、急成長しつつあったヒズボラの下部組織であった。ヒズボラは元々「イスラーミーヤ・アマル」というアマルにおけるイスラム主義を主張する非主流派であったが、「同胞の支援」を掲げて来訪したイスラム革命防衛隊の将兵達によって編成・訓練された上で分派した民兵組織であった。シーア派はレバノン南部に多く住み、常にイスラエルの攻撃に曝されていたが、パレスチナ問題には比較的冷淡であった。このため、傲慢さのあるPLOの支配に反感を覚え、イスラエルの「解放」に歓迎の姿勢を見せる者さえいた。しかし、イスラエルは彼らの考えや立場を理解せず、同派の重要な宗教行事を妨害し中止命令を出した事によって、一気に反発が高まった。 シューフ山地における戦闘も国軍・LFの敗北が決定的となり、ヒズボラの大規模自爆テロの衝撃から1984年2月、アメリカ海兵隊の撤退を皮切りに多国籍軍は撤退を余儀なくされる。サブラ・シャティーラ事件の国際的な非難のなか、イスラエルもまたレバノンから撤退するが、南部国境地帯を半占領下に置いたままであった。逆にアマルやドゥルーズ派はシューフ山地の奪還に成功し、ついには西ベイルートからも国軍を放逐。再建された国軍は再び瓦解し(ムスリムが中心の部隊はアマル等の指揮下に入った)、東ベイルートに閉じ込められる事となった。
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