外島保養院患者と村田正太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 07:49 UTC 版)
「村田正太」の記事における「外島保養院患者と村田正太」の解説
昭和6年春頃より面白からぬ思想が外島の楽園に入ってきた。之にかぶれた者は一つのグループ作り、病気の軽い有望な青年達を誘惑して自分たちの仲間に引き入れマルクスやエンゲルスの思想を吹き込み、そして反宗教の叫びをあげた。未だ宗教の味も知らない有為の青年を巧妙な手段で引き込み猛烈に運動した。そのために有為の青年たちは多数宗教団体を脱して、無神論者、唯物論者となって、宗教を攻撃する者も現れて来た。その中で最も多数の脱会者を出したのはキリスト教であった。(略)昭和5,6年のことであったと思う。大阪医大で日本らい学会が開催された時に、村田院長先生が「君たちの方で社会にたいする願いがあるなら、書き出してみよ。僕が提出して説明してやるから」と理解ある親切なことを言ってくださった。(中略)協議の結果、7件の請願問題が出た。先生はそれを検討して、1件にして「社会にたいする私たちのお願い」を学会に提出してくださったことがある。村田先生は理想的な療養所を建てようと、建築技師を採用し、患者側にも希望を出すようにとの、早速設計委員会を作り毎月5,6回会合して方眼紙、30余枚の設計図を送った。先生留守中に院長先生辞職の噂がでた。新聞にも出た。院長先生の辞職は入院者にとって心臓を刺されるような思いであった。この時、院長先生は全患者を礼拝堂に集めて辞職の件を簡単に話され、この問題は解決したから、一同安心するようにと話された。
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