壱岐丸・対馬丸建造の経緯
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「対馬丸 (連絡船・初代)」の記事における「壱岐丸・対馬丸建造の経緯」の解説
1901年(明治34年)5月27日の山陽鉄道 馬関 - 神戸間全通と、日露戦争中、1905年(明治38年)1月の朝鮮半島での京釜鉄道 京城 - 釜山間全通を受け、山陽鉄道は日露戦争後の日本の大陸進出を見込み、両鉄道の連絡運輸のため、下関から釜山に至る122海里(226キロ)の関釜連絡船航路開設を計画し、傍系の山陽汽船が、同航路用の壱岐丸型1,680総トン級海峡渡船2隻を長崎の三菱合資会社三菱造船所で建造した。その第1船 壱岐丸(初代)は日露戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日、関釜航路開設初便として就航し、同年11月1日には第2船 対馬丸(初代)が就航して毎日運航となった。両港間の運航は釜山行・下関行とも所要時間11時間30分の夜航便で、東京 - 京城間は60時間で結ばれた。
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