報復と人種暴動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 06:38 UTC 版)
アジア・太平洋戦争の終結後、MPAJAはシンガポールに進軍、MCPはクイーン街(英語版)に本部を設立し、蒋克秋の中国語学校を引き継いだ。 MCPは対日協力者を探し出して報復することに注力した。1947年、総書記の萊特が戦争中日本軍に協力していたことが発覚し、萊特は逃亡、前ペラ州書記の陳平が総書記となった。またMCPは華人の対日協力者を人民裁判にかけ、更に、もともと華人ほど日本人に悪感情を抱かず、対日協力者の多かったマレー人に対しても報復を行い、バトゥパハ(マレー語版)やムアル(英語版)ではマレー人が反撃して双方に多数の死者が出る人種暴動となったほか、ペラ州での衝突では数百人の華人がマレー人の家屋19戸を焼き、マレー人56人を殺害した(ブコールの虐殺)。 英軍が復帰するまで、MPAJAはマラヤ各地に人民委員会をつくり、また治安維持にあたったが、コミンテルンが解散し、コミンフォルムが未結成でモスクワからの指示がない状況で、共産マラヤの独立を宣言することはなかった。
※この「報復と人種暴動」の解説は、「マラヤ共産党」の解説の一部です。
「報復と人種暴動」を含む「マラヤ共産党」の記事については、「マラヤ共産党」の概要を参照ください。
- 報復と人種暴動のページへのリンク