国際競争力と日本経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 08:17 UTC 版)
1919年から1931年にかけての経済論壇の主流は、経常収支赤字による対外準備減少を日本の国際競争力の欠如であり、通貨高やデフレーションによって非効率な部門の淘汰し国際競争力を高めていこう、という輸出競争主義や絶対優位の思考に陥ったものであった。当時の歴代内閣の大半も、国際競争力は高コスト体質から来ていると解釈し、物価・賃金の引き下げを狙ったデフレーション政策を志向した。これは正しく絶対優位に基づいた考え方である。なお、デフレーションの進行で、名目賃金は低下するが、実質賃金と外貨建ての輸出価格は共に高騰する。 1985年9月に成ったプラザ合意から、円高が急速に進み日本製品の国際市場における価格競争力が低下した。同時に、労働コストが他の工業国に比べ上昇したため、日本国内に生産拠点を持っていた比較優位産業(輸出製造企業)の収益性が失われた。 バブル崩壊後の日本では、国際的競争力を輸出競争力という意味で「日本の国際的競争力は経済のグローバル化の影響で低下している。」「(国際的競争力の低下に因って)日本の産業の空洞化が進んでいる。」という見方が広まった。日本の国際競争力の低下は、1980年代から明らかとなり、デフレーション基調に陥ったバブル崩壊後の1990年代後半から顕著となっている。この国際競争力の低下に対応し、日本の製造業の生産拠点が労働コストの低いアジア地域に移転され、そこから第三国にも輸出される(三角貿易)ようになった。しかし一方、これにより収益性の大幅低下に苦しむ電機産業が、実質労働生産性で高い成長を遂げた。
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