厳綱
厳綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 13:41 UTC 版)
厳綱 | |
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後漢 冀州刺史 |
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出生 | 生年不詳 |
死去 | 初平3年(192年) |
拼音 | Yán Gāng |
別名 | 劉綱 |
主君 | 公孫瓚 |
厳 綱(げん こう、? - 192年)は、中国後漢時代末期の武将。『九州春秋』など一部文献では、「劉綱」とされているという(盧弼『三国志集解』注)。
正史の事跡
公孫瓚の配下。初平2年(191年)以降、公孫瓚は従弟の勃海太守公孫範の活躍もあって、袁紹をも凌ぐ程に河北で勢力を拡大していた。この時、公孫瓚は田楷を青州刺史に、単経を兗州刺史に任命したが、同時に厳綱も冀州刺史に任命されている。
初平3年(192年)、厳綱は公孫瓚に従い、袁紹軍との界橋の戦いに加わったが、袁紹軍の勇将の麴義の前に敗れて戦死した(生け捕られた後、処刑されたとも言われる)。
物語中の厳綱
小説『三国志演義』も史実同様の描写であり、界橋の戦いで麴義に討ち取られる。
参考文献
厳綱(げんこう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:26 UTC 版)
「一騎当千の登場人物」の記事における「厳綱(げんこう)」の解説
Bランク。刺客の来襲に際し、腑抜けになっている公孫瓚に代わり実質的に防衛戦の指揮をとるも、予州学院の麴義の攻撃を受ける。生死は不明だが、右手を失っている。
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