噏滊館と熱海御用邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 16:41 UTC 版)
「熱海梅園」も参照 明治時代に入ると、明治天皇の皇太子の教養主任陸軍中将で、後の東宮太夫・将軍・枢密院顧問である曽我祐準が、1875年(明治8年)から熱海に通いリウマチを治療したとされ、また岩倉具視の命を受けた内務省の長与専斎が、1886年(明治19年)に大湯間歇泉付近に日本初の温泉療養所「噏滊館(きゅうきかん)」を作った(1920年(大正9年)に焼失)。 そのこともあって、熱海には多くの政治家や政府高官が保養や会談のために訪れており、東京との連絡を取るために、1889年(明治22年)1月1日には、東京~熱海間で日本最初の市外電話が敷かれた。(現在、大湯間歇泉の南脇には、このことを記念する電話ボックスが設置されている。) また、大湯に程近い「御殿」跡は明治維新後、熱海村の公有地になっていたが、1878年(明治11年)に三菱の岩崎彌太郎が買い上げ、大部分を1883年(明治16年)に宮内省に献納、当時の皇太子(後の大正天皇)療養のための「熱海御用邸」が1889年(明治22年)6月に竣工し、1931年(昭和6年)に廃止されて熱海町(当時)に払い下げられるまで存続していた(現・熱海市役所)。
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