呉匡
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『後漢書集解』が弘農太守となった呉匡伯康と同人とするのは誤り。弘農太守は河内の人であり、また活躍時期も若干離れている。 中平六年(一八九)八月戊辰《後漢書霊帝紀》、大将軍何進が宮中で殺害されたとき、その部曲将であった呉匡・張璋は日ごろから何進に可愛がられていたので、軍勢を率いて宮中に突入しようとした。宮門は閉じられていたが、呉匡は虎賁中郎将袁術とともにこれをぶち破った《後漢書何進伝》。 司隷校尉袁紹は、何進の弟である車騎将軍何苗とともに朱雀門の前に軍勢を集め、趙忠らを捕縛、これを斬首した。呉匡らはもともと何進に協力しなかった何苗を怨んでおり、また彼が宦官どもと通謀していたのではないかとも疑い、「大将軍を殺したのは車騎将軍だぞ。だれか仇討ちする者はおらぬか!」と号令をかけると、何進から恩恵を被っていた士卒たちはみな涙を流しながら「たとい死すとも!」と応じた。呉匡は軍勢を率いて奉車都尉董旻とともに朱雀門前の何苗を攻め殺し、その遺骸を御苑に放棄した《後漢書霊帝紀・同何進伝》。 呉匡による何苗殺害を『後漢書』霊帝紀では庚午、同天文志では己巳としている。 【参照】袁紹 / 袁術 / 何進 / 何苗 / 呉班 / 張璋 / 趙忠 / 董旻 / 朱雀門 / 陳留郡 / 虎賁中郎将 / 車騎将軍 / 司隷校尉 / 大将軍 / 奉車都尉 / 部曲将 |
呉匡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/28 18:09 UTC 版)
姓名 | 呉匡 |
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時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 兗州陳留郡 |
職官 | 部曲将〔何進〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 何進 |
家族・一族 | 子:呉班 従子:呉懿 |
呉 匡(ご きょう、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。何進配下の武将。兗州陳留郡の人[1]。
略歴
光熹元年8月29日(189年9月22日)、主君の何進が、宦官の張譲らによって殺害される[2]。呉匡はこの仇を討つため軍勢を率い、宮門を破らんとするが、張譲らは少帝弁と陳留王(後の献帝)を連れて逃走する[3]。
そこで呉匡は標的を、何進の異母弟の何苗に向ける。呉匡はかねてから何進と同調しない何苗を恨み、彼が宦官と結託していると疑っていた。呉匡が軍中に「大将軍(何進)を殺害したのは車騎将軍(何苗)である」と触れを出すと、何進に恩ある士卒たちは心を一つにし、ついに朱爵門の下で何苗を殺害した[4]。
その後、何進・何苗配下の兵たちは董卓によって併呑されるが[5]、呉匡の動向は不明。従子の呉懿(呉壹)は劉焉に随行して益州に入り、後に蜀漢の重臣となった。呉匡の子の呉班も蜀漢で彼に次ぐ地位に上ったという[6]。
小説『三国志演義』では第3回で登場。史実同様に何進の仇討ちと称して、何苗殺害を扇動する。
出典
脚注
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