司牧書簡とは? わかりやすく解説

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牧会書簡

(司牧書簡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/18 01:41 UTC 版)

西暦200年頃の『テトスへの手紙』の断片(パピルス32英語版/
テモテ

テモテ使徒言行録16章1節から3節において言及されているパウロの弟子であり、真正パウロ書簡でもパウロの協力者あるいは手紙の共同差出人としてその名がみられる[35]

手紙ではパウロは自分がマケドニアに発つのに際し、テモテに対してエフェソにとどまって人々を導くように託している(1章3節)。この記述について、擬似書簡と見なす立場からは『第二コリント書』1章1節と『使徒言行録』19章22節・20章1節(これらの叙述ではパウロがマケドニアに発つより先にテモテがマケドニアにおり、同地でともに行動していることが読み取れる)などと整合していないと指摘されている[36][37]。他方、擬似書簡と見なす立場でも辻学は、『第一コリント書』16章5節から11節にて、マケドニアへ発つ前にエフェソに滞在し、テモテが来るのを待っている状況が描かれていることを利用して、場面設定がなされたと推測している[38]

真正書簡と見なす側からは、『使徒言行録』が対象とする時期よりも後の状況を示したものと理解し、『使徒言行録』などの記述と整合しないことは問題ではないとしている[30][15]

手紙ではテモテへの勧告として、「異なる教え」に対して注意を喚起し、教会の組織化について助言を与えている[39]。「異なる教え」について、具体的なことは不明である。「異なる教え」に対して強い批判が向けられてはいるものの、その思想との論争点についての具体的な言及は少ない[36]。ただし、その人々が自らの思想を「知識」と呼んで誇っているという6章20節の言及から、グノーシス主義(グノーシスは「知識」などの意味)を想定する論者が複数いる[40][41]。ただし、この点、牧会書簡すべてが共通する「異なる教え」に直面していると見る場合と、手紙ごとにさまざまな「異なる教え」が想定されていると見る立場によっても異なる[42](後述も参照)。

第二テモテ書

第二テモテ書はテトス書よりも前に置かれているが、本文から読み取れる状況は明らかにこちらの方が後である[23]。というのは、「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた」(4章6節)[注釈 3]とあり、パウロが自らの死が近いことを仄めかしているからである[注釈 4]

この手紙では、ローマの獄中[注釈 5]にいるパウロが、まだエフェソにとどまっていたらしいテモテに送る形式になっている[43][27]

その主題は、テモテへの激励や、誤った信仰を含む避けるべき悪の列挙などである[44]。誤った信仰に対してはあまり具体的な姿が語られず、彼らとの議論することの価値が否定しつつ、その不品行を強く批判することに力点が置かれている[45]。この傾向は牧会書簡全体に共通する特色でもある[46]

なお、3章16節「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」[注釈 6]という句は、聖書が霊感を受けて執筆されたものとする思想の根拠の一つとなった[47][48]

第二テモテ書は第1章と第4章にかなり細かい個人的言及が記されており、何人かの人物はそこにしか登場しない。真正書簡と見なす立場からは、パウロ自身が書いた証拠と見なされるのに対し、擬似書簡と見なす立場では、信憑性を増すための工作と理解される[49][50]。ただし、全体が擬似書簡であっても、第1章と第4章の一部にパウロ自身の覚書などが反映されている可能性を認める者[51]は存在する。

テトス書

テトス

テトスは『使徒言行録』には言及がないが、いくつかのパウロ書簡で言及のあるパウロの同労者である。特にパウロとコリントの教会の仲介役として貢献し、『コリントの信徒への手紙二』の複数箇所に言及がある[52][53]

このテトス書では、テトスはクレタ島に留まることを命じられている。しかし、『使徒言行録』は27章で囚人として護送中のパウロがクレタに立ち寄ったことを記しているが、クレタ島での伝道については書かれていない[54][55]。真正書簡と見る立場では、前述のように『使徒言行録』に書かれた時期よりも後を想定し、クレタ島に伝道した時期もあったとする[56][57]。他方、擬似書簡と見る立場では、根拠は不明とされる。辻学は偽名性が露見しないように、パウロに関する既知の情報と矛盾しない意図を見出している[58]田川建三はまったくの創作の可能性のほか、牧会書簡の著者周辺の伝承に基づいている可能性も挙げている[55]

内容はテトスに対して、教会の長老となるべきものの資質について説き、それとついになる不品行を厳しく批判するものとなっている[59][60]

正典化

牧会書簡への最古の言及とされることがあるのは、使徒教父文書に含まれる『クレメンスの第一の手紙』(ローマのクレメンス、96年頃)、『ポリュカルポスへの手紙』(アンティオキアのイグナティオス、2世紀初頭)、『ポリュカルポスの手紙』(ポリュカルポス、2世紀初頭)などである。たとえば、『ポリュカルポスの手紙』の「一切の悪しきことのはじまりは金銭欲なのです」(4章1節)[61]は、第一テモテ書6章10節「金銭を愛することは、すべての悪の根である」と対応している。これを引用と見なす論者[24]は、当然、牧会書簡をこれら使徒教父文書よりも前の成立と見ている[62]。それに対し、これを引用ではなく牧会書簡の著者とポリュカルポスの思想的近さを示すに過ぎないとする見解[63]もあるが、さすがにハンス・フォン・カンペンハウゼンドイツ語版のようにポリュカルポス自身が牧会書簡の著者であるとする説は、広い支持を受けるには至っていない[64]。また、第一テモテ書の6章10節の起源を当時の格言と見なす見解も複数見られ[65][66]フィロンも同様の格言を引用している[66]

前述のように、140年頃のマルキオン聖書や200年頃のチェスター・ビーティ・パピルスには収録されていないが、この事実をどう評価するかは論者によって様々である。2世紀末から3世紀初頭とされる『ムラトリ正典目録』では、正典に含められている[23]

直接的な引用で最古のものはエイレナイオスの『異端駁論』(180年頃)で、この冒頭に第一テモテ書1章4節からの引用が掲げられている[67]。このエイレナイオスの影響もあって、3世紀になるとテルトゥリアヌスらにも引用されるようになった[68]。それ以降、19世紀になって真正性に疑問が投げかけられるまで、特にその真正性が疑われることはなかった[69]

批判

聖書学者の中には牧会書簡の描く倫理観に対して批判的な意見を述べる者もいる。田川建三は、第一テモテ書2章14節でエヴァが誘惑された責任をエヴァのみに帰したり(『創世記』ではアダムの責任も読み取れる)、同2章15節で女性が「子を産むことによって救われるであろう」と明言したりなどは、いずれも正典の中で牧会書簡が最初であり、後のキリスト教社会の女性観を支配したと批判した[70]。上村静も、女性を男性に従属すべきものとして描き出した価値観は、近現代における女性の解放と対立的に作用したと指摘している[71]

脚注

注釈

  1. ^ 他方、内容を踏まえた上で「何ともしょうがない文書」(田川 2009, p. 813)と酷評する田川建三のような聖書学者もいないわけではない
  2. ^ 新聖書辞典』では、初出をアントンとしつつ、それを1726年のことだったとしている(泉田 et al. 1985, p. 1150)
  3. ^ 著作権上の配慮から、聖書からの引用は口語訳聖書に基づく。以下同じ。
  4. ^ 新約聖書の収録順は一般に第一テモテ、第二テモテ、テトスの順であるが、概説書の中には第一テモテ、テトス、第二テモテの順に解説する文献もある。たとえば尾山 1964W・マルクスセン 1984など。
  5. ^ 1章16・17節が根拠となっているが(辻 2013, p. 168、泉田 et al. 1985, p. 863etc.)、その部分を過去の体験の叙述と理解し、牢獄の位置が明記されていないと見る者(川島 1991, p. 298)もいる。W・マルクスセン 1984, p. 355はローマの獄中としつつも、回顧的描写の可能性を疑問符つきで併記している。
  6. ^ ここでの「聖書」は直接的には旧約聖書を指す(レジス・ビュルネ 2005, p. 85)。

出典

  1. ^ a b 上智学院新カトリック大事典編纂委員会 1998, p. 1289
  2. ^ フランシスコ会聖書研究所 2013, pp. 573-575(新)
  3. ^ a b c d e 泉田 et al. 1985, p. 1150
  4. ^ ギュンター・ボルンカム 1972, pp. 188–191、松村 1992, p. 620、速水 1994, pp. 209–210、保坂 1996, p. 296、秋山 2005, pp. 300–302、レジス・ビュルネ 2005, p. 83、田川 2009, pp. 797–798、バート・D・アーマン 2010, p. 158、辻 2013, pp. 55–61ほか。
  5. ^ 「050. 牧会書簡」大貫 et al. 2002
  6. ^ a b 日本聖書協会 2004, pp. 17–20
  7. ^ フランシスコ会聖書研究所 2013, pp. 574-575(新)
  8. ^ 松村 1992, p. 621
  9. ^ 旧約新約聖書大事典編集委員会 1989, p. 1097
  10. ^ 川島 1991, p. 296
  11. ^ a b 辻 2013, p. 157
  12. ^ a b 辻 2013, pp. 157–158
  13. ^ フェデリコ・バルバロ 1975, pp. 399–400
  14. ^ フランシスコ会聖書研究所 2013, p. 574(新)
  15. ^ a b 柴田 2008, p. 1715
  16. ^ 尾山 1964, pp. 326–327
  17. ^ 辻 2013, pp. 60–61
  18. ^ 田川 2009, p. 812
  19. ^ a b 辻 2013, pp. 158–159
  20. ^ a b 川島 1991, pp. 297–298
  21. ^ 辻 2013, pp. 169–171
  22. ^ 川島 1991, p. 300
  23. ^ a b c d 保坂 1996, p. 298
  24. ^ a b 辻 2013, p. 189
  25. ^ 田川 2009, pp. 814–815
  26. ^ 辻 2013, p. 191
  27. ^ a b c 川島 1991, p. 298
  28. ^ バート・D・アーマン 2010, p. 159
  29. ^ 保坂 1996, p. 295
  30. ^ a b 泉田 et al. 1985, pp. 862–863
  31. ^ 速水 1994, p. 211
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  40. ^ 田川 2009, pp. 720–721
  41. ^ 辻 2013, p. 179
  42. ^ 辻 2013, pp. 178–180
  43. ^ 柴田 2008, p. 1716
  44. ^ 日本聖書協会 2004, p. 19
  45. ^ 上智学院新カトリック大事典編纂委員会 2002, pp. 1171
  46. ^ 土屋 2000, p. 599
  47. ^ レジス・ビュルネ 2005, p. 85
  48. ^ 田川 2009, pp. 745
  49. ^ 川島 1991, p. 319
  50. ^ 辻 2013, pp. 59–60
  51. ^ 秋山 2005, p. 303
  52. ^ 日本聖書協会 2004, p. 396(新)
  53. ^ 秋山 2005, p. 300
  54. ^ 土屋 2000, p. 625
  55. ^ a b 田川 2009, p. 760
  56. ^ 泉田 et al. 1985, pp. 856–858
  57. ^ 中尾 2008, pp. 1740–1741
  58. ^ 辻 2013, p. 59
  59. ^ 日本聖書協会 2004, pp. 19–20
  60. ^ 秋山 2005, pp. 300–301
  61. ^ 田川 1998, p. 216
  62. ^ 辻 2013, pp. 189–191
  63. ^ 田川 1998, p. 472
  64. ^ 川島 1991, p. 301
  65. ^ 土屋 2000, p. 613
  66. ^ a b 川島 1991, p. 315
  67. ^ 田川 2009, pp. 654, 815
  68. ^ 田川 2009, pp. 815–816
  69. ^ 川島 1991, p. 297
  70. ^ 田川 2009, pp. 670–671
  71. ^ 上村 2011, pp. 301–302

参考文献

関連項目




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