古里村の成立と近代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 01:35 UTC 版)
「古里町 (鹿児島市)」の記事における「古里村の成立と近代」の解説
古里という地名は江戸時代より見え、大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちであった。「三州御治世要覧」によれば湯之村(現在の東桜島町)より分割され成立したとされ、天明3年(1783年)頃に古里村が湯之村から分村したとされている。測量家である伊能忠敬が桜島を測量した文政7年(1824年)には湯之村のうちであったと記されているほか、薩摩藩によって編纂された地誌である「三国名勝図会」にも古里は湯之村のうちであるという記述がある。村高は「旧高旧領取調帳」では31石余、「三州御治世要覧」では40石余であった。 安永8年(1779年)に発生した安永大噴火では噴火口が古里村と高免村(現在の高免町)に現れた。古里村の家々は飛来した火山弾によって焼失した。住民は喜入や鹿児島城下へ避難した。南林寺町にある南林寺の「桜島燃亡霊等の碑」によれば古里村の死者は6名と記されているが、天明5年に古里村に建てられた墓碑によれば20名とされている。喜入や鹿児島城下へ避難した住民らは噴火が落ち着いたのち隣接する湯之村に2年から3年程住んでから古里村に戻ってきたという。この噴火によって湧出した温泉はのちに古里温泉となり、湯治客などが多く訪れたという。 1887年(明治20年)4月2日には「 鹿兒島縣下分郡ノ件」(明治20年勅令第7号)により大隅郡が南北に分割され、古里村は北大隅郡の所属となった。
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