南仁樹とは? わかりやすく解説

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南仁樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/07 16:12 UTC 版)

南仁樹
남인수
1969年撮影
基本情報
出生名 崔昌洙(최창수
改名:姜文秀(강문수
生誕 1918年10月18日
出身地 日本統治下朝鮮 慶尚南道晋州
死没 (1962-06-26) 1962年6月26日(43歳没)
 大韓民国ソウル特別市
学歴 晋州第2公立普通学校 卒業
晋州高等普通学校 中退
ジャンル トロット
職業 歌手
活動期間 1936年 - 1962年
配偶者 キム・ウンハ(김은하)(離婚)
著名な家族 義兄(姉の夫):孫洪八朝鮮語版(法曹人)
公式サイト 가요황제 남인수 전승보전회

南 仁樹(ナム・インス、남인수1918年10月18日 - 1962年6月26日[1])は、朝鮮の日本統治時代から活動し、1930年代後半から1950年代までヒット曲を出し続けた、大韓民国歌手[2]

学歴

  • 晋州第2公立普通学校(진주제2공립보통학교、後の蓬莱初等学校朝鮮語版)卒業(1932年[3][4]
  • 晋州高等普通学校(진주고등보통학교、後の晋州真珠高等学校朝鮮語版)中退

生涯

生い立ち

1918年慶尚南道晋州で生まれた。 出生名は、崔昌洙(チェ・チャンス、최창수)であったが、幼いうちに姜文秀(カン・ムンス、강문수)と改名した。

母親チャン・ハバン(장하방)は、初めてチェ()氏(晋州美川面朝鮮語版美谷里(미곡리)に嫁いだが、夫に先立たれたため、晋州・下村洞(하촌동)の姜ヨンテ(강영태)の小室(소실側室)に入り、そこで産んだ子供が姜文秀である[5]

幼年時代と青少年時代については、少々不愉快に過ごしたということだけが知られている。後に南仁樹の家族は米国に移り、晋州の姜氏家とは長らく交流がなかった。これは、南仁樹の幼年期が大変苦しかったためであろうと姜氏家中では推測している。

1932年に晋州第2公立普通学校を卒業したことが、日本統治時代朝鮮総督府学務局を通じて確認されている。その後、晋州高等普通学校に進んだが、中退している。

歌手活動

南仁樹は、シエロンレコード朴英鎬朝鮮語版朴是春を通じて歌手としてデビューし、その後、オーケーレコードでスターになった。

南仁樹という名は、歌手デビューした際に、作詞家の姜史浪(강사랑)が作った芸名である。当時、南仁樹の登場は「百年に一度出てくるかどうかの未成人の歌手誕生」として大きく宣伝された。南仁樹は音域が広く、感情表現も豊富で、歌手としての天賦の才を持っていた。声が充実した美声である上、音高と発音が正確で、高音処理に強みを見せた。

1936年、当時9歳の少年詩人だった金相華朝鮮語版の作った詩に曲をつけた「눈물의 해협(仮訳:涙の海峡)」で歌謡界にデビューし、1938年には、デビュー曲を李扶風(朴魯洪)朝鮮語版が歌詞を改作した「哀愁의 小夜曲(哀愁の小夜曲)」が空前のヒットを記録した。

南仁樹の登場は、蔡奎燁朝鮮語版髙福壽朝鮮語版姜弘植など以前の世代の人気歌手の時代が終わり、歌謡界に新しい版図を開いたと評価されるほど大きな影響を及ぼした。

光復後、一時は、1949年に「신라의 달밤(新羅の月夜)」を大ヒットさせた玄仁朝鮮語版に男性トップ歌手の座を譲るが、1954年にソウルに新設されたユニバーサルレコードから、「離別の釜山停車場」をはじめとする一連の朴是春の作曲によるヒット曲を出して復活した[2]

その後、病を得て、一時は故郷の晋州で療養していたが、作曲家の白英湖({{lang|ko|백영호})の説得を受けて、1956年釜山のビクトリーレコードから「추억의 소야곡(追憶の小夜曲)」を発表してヒットさせた[2]。同年には、ソウルのオアシスレコードから、作詞家半夜月朝鮮語版作曲家李在鎬朝鮮語版と組み、「산유화(山有花)」など一連のヒットを出した[2]

南仁樹は、その活躍ぶりから、「歌謡皇帝(가요 황제、カヨファンジェ)」という別名で呼ばれるほど大衆的な人気を得ていた[2]

私生活

南仁樹は、キム・ウンハ(김은하)という女性と結婚していたが、離婚した。

その後、1950年代以降は、同僚歌手だった李蘭影朝鮮語版とのロマンスが広く知られた[6]。李蘭影はもともと作曲家金海松の妻であったが、朝鮮戦争の際に夫が失踪してしまい(拉北、殺害されたと考えられている)[2]、南仁樹の助けを借りて金海松が運営していた楽団を引き継いだ。その後、ふたりは事実上の夫婦関係となり[2]、李蘭影は1962年に南仁樹が肺結核で死亡するまで、看護をしていた。

南仁樹は、1962年7月に肺結核で遂に死去したが、死去する前に韓国芸能人協会(한국연예인협회)副理事長、大韓歌手協会 ko会長などを務めていたこともあり、葬儀は芸能協会葬として執り行われた。

評価と顕彰

南仁樹は、日本統治時代末期に百年雪、朴響林朝鮮語版といっしょに歌った「혈서지원(血書志願)」をはじめ、「그대와 나(仮訳:君と私)」、「아들의 혈서〈仮訳:息子の血書)」など、太平洋戦争を支援する強制動員歌謡を軍国主義日本帝国主義の下で取り入れた。このような行為により、2008年に発表された民族問題研究所親日人名辞典収録予定者名簿の音楽部門に選定された。 「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」にもとづいて設置された親日反民族行為真相糾明委員会は、南仁樹を、百年雪とともに、法に明示された親日反民族行為決定審議対象者リストに載せ、審議を行なったが、大衆歌手が持っていた当時の社会的地位が相対的に低かったという事実が認められ、棄却された[7]

晋州市が主催する芸術祭に含まれる南仁樹歌謡祭の開催をめぐっては、市民団体が南仁樹の親日経歴に抗議するなど、何度も議論があった[8][9]

晋州姜氏の家間(집안、一族)と南仁樹伝承保全会(남인수 전승 보전회)は、晋州市下村洞にある姜氏の家内墓地に南仁樹の墓を移して改葬し、管理している[10][11]。この墓所の近くには、晋州市が設置した小さな亭子があり、その名を「ムンスジョン(문수정)」という。これは、南仁樹の本名である「姜文秀(カン・ムンス)」から採ったものである。

晋州市の生家は、一時期は文化財に指定されており[12][13]銅像歌碑なども建てられている[14]

代表曲

南仁樹は、20年あまりの間、生来の美声で最高の人気を享受し、「물방아 사랑」、「꼬집힌 풋사랑」、「감격시대」、「항구의 청춘시(靑春詩)」、「울며 헤진 부산항」、「서귀포 칠십리(西敀浦七十里)」、「청노새 탄식」、「낙화유수」、「남아일생」、「일가 친척〉」、「가거라 삼팔선」、「달도 하나 해도 하나」、「청춘 무성」、「고향의 그림자」、「고향은 내 사랑」、「離別의釜山停車場(離別の釜山停車場)」、「청춘 고백」、「추억의 소야곡(追憶の小夜曲)」、「산유화(山有花)」、「울리는 경부선」、「무너진 사랑탑」など、数多くのヒット曲を残した。生涯に、合わせておよそ1千曲近くの歌を歌ったが、多くは、青春の切ない愛と人生の哀悼、流浪の悲しみなどを描いた歌だった。

このほか、麗水・順天事件を題材として扱い、1949年9月1日大韓民国初の禁止曲(금지곡)とされた、「여수야화(麗水夜話)」がある。

脚注

  1. ^ 톱流行歌手 南仁樹氏 別世”. 경향신문. p. 3 (1962年6月27日). 2019年3月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年3月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 山根俊郎「歌ノレ노래162 『崩れた愛の塔』」『むくげ通信』(PDF)、第235号2012年7月29日、21面。2025年4月4日閲覧。
  3. ^ 晋州姜氏の家中で、蓮羅初等学校の学籍部を通じて確認された。
  4. ^ 남인수 (南仁樹)”. 한국민족문화대백과사전. 한국학중앙연구원. 2025年4月4日閲覧。
  5. ^ 晋州の姜氏の門中で、南仁樹の出生に関する事実を把握するために、晋州市美川面美谷里のチェ氏家の大宗会を訪問して確認した事実である。チェ氏家では、南仁樹の出生に関する事実を全く知らなかった。
  6. ^ 최규성 (2003年6月4日). “[추억의 LP여행] 이난영(下)”. 주간한국. 2008年2月22日閲覧。
  7. ^ 친일반민족행위진상규명위원회 (2009). 친일반민족행위진상규명 보고서 Ⅱ. 서울: 친일반민족행위진상규명위원회. p. 222 
  8. ^ 윤성효 (2006年9月8日). “친일 논란 '남인수 가요제' 법정 간다 - 진주시민운동, '가요제 중단' 가처분소송 등 내기로”. 오마이뉴스. 2008年2月22日閲覧。
  9. ^ 양정석 (2005年7月21日). “KBS '가요무대' 남인수 헌정무대 씁쓸”. 오마이뉴스. 2007年11月1日閲覧。
  10. ^ 김종현 (2012年6月29日). “진주 '남인수 묘소' 생가 뒷산에 이장”. 경남도민일보. 2025年4月4日閲覧。
  11. ^ 김시원 (2018年4月9日). “가수 남인수, 진주 姜씨 문중 선산에 묻히다”. 경남연합신문. 2025年4月4日閲覧。
  12. ^ 최규성 (2005年4月18日). “남인수 '애수의 소야곡' 생가 문화재로 지정”. 조선일보. 2005年4月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年2月22日閲覧。
  13. ^ 登録文化財に指定されたが、根拠不足などを理由に8年後に指定が解除された。
  14. ^ 강문영 (2005年9月5日). “황국신민 맹세한 인물이 한국음악의 거목 - [친일음악편] 홍난파, 현제명, 김성태, 남인수 등 24명”. =컬처뉴스. 2025年4月4日閲覧。

参考文献

  • 강옥희,이영미,이순진,이승희 (2006-12-15). 식민지시대 대중예술인 사전. 서울: 소도. pp. 97-99. ISBN 978-89-90626-26-4 

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