協会創立時の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/05 01:10 UTC 版)
新婦人協会が主要課題の1つにあげた花柳病男子結婚制限は、新婚の夫から性病(花柳病)に感染した妻が、夫側から不当な扱いを受ける事例を聞いた平塚が、母性保護の立場から熱心に取り組んでいた。しかし、かねてより平塚と母性保護論争を繰り広げていた与謝野晶子は、『新婦人協会の請願運動』と題する一文の中で、新婦人協会の活動目標を舌鋒鋭く批判。特に花柳病男子結婚制限への取り組みを、「全く異様の感を持たずにいられなかった」と辛辣にこき下ろした。 これに対して平塚も中央公論誌上で反駁したが、一方で市川房枝は、「実のところ私はこの方(花柳病男子結婚制限の法制化)にはあまり関心がなかった」と、後年述懐している。 1921年4月結成の赤瀾会の山川菊栄は、雑誌『太陽』大正10年7月号で『新婦人協会と赤瀾会』を発表。協会の活動を「労して益なき議会運動」「ブルジョア婦人の慈善道楽」と批判。これに奥むめおがすぐさま同誌8月号に『私どもの主張と立場』を書いて治安警察法5条改正の意味や、女性の自覚と階級を超えた団結の必要性を説いて反駁した。
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