十字屋映画部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:36 UTC 版)
「銀座十字屋 (楽器店)」の記事における「十字屋映画部」の解説
1920年代の半ばに、9.5mmフォーマットのカメラや映写機を十字屋楽器店として。販売するようになる。また、既製品の9.5mmプリントも販売された。1930年代になると、独自に設計した純国産16ミリサイレント映写機を小学校向けに販売するようになる。 1934年(昭和9年)、小学校理科の教材映画の製作を開始した。映画教育の先進校として知られる東京市芝区赤羽小学校(現在の港区立赤羽小学校)の理科担当訓導の太田仁吉が協力するようになり、同年入社。このシリーズは後に『理科映畫大系』に名前を変え、1939年(昭和14年)までに25編が製作された。同年、国民新聞ニュースのカメラマンとして、鈴木喜代治が入社した。さらに、1938年(昭和13年)には、カメラマンとして、小林米作が入社。このスタッフで『細菌物語』(1941年(昭和16年))といった科学映画がつくられた。さらに、演出の奥山大六郎らが加わり、アニメーターの田中喜次が1939年(昭和14年)に入社した。 1942年(昭和17年)、東宝の文化映画部とともに、日本映画社に統合された。 戦後、十字屋映画部のスタッフの多くは、日本映画社、日映科学映画製作所で活躍した。
※この「十字屋映画部」の解説は、「銀座十字屋 (楽器店)」の解説の一部です。
「十字屋映画部」を含む「銀座十字屋 (楽器店)」の記事については、「銀座十字屋 (楽器店)」の概要を参照ください。
- 十字屋映画部のページへのリンク