医師開業と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 03:37 UTC 版)
文化13年(1816年)、吉高村の医師・前田宗珉に師事。文政8年(1825年)、吉高村で医師を開業した。このころ鈴木友七の三女「トヨ」と結婚。義父の鈴木友七は稲葉藩大森代官所の「御使番」だった。文政12年(1829年)、長女「ふみ」が生まれる。同年、母「ひさ」が死去。天保3年(1832年)に長男「佐与次郎」が誕生。佐与次郎はのちに他家の養子となり、医師として活躍する。 天保9年(1838年)、宗旦は妻と二人の子を連れて下総国布川村に戻った。布川は利根川中流の左岸にあって河岸が発達した町で、同じ下総国布佐(現在の千葉県我孫子市布佐)の対岸にある。天保10年(1839年)、次女「つね」が生まれるが、天保13年に早世。弘化元年(1844年)には、三女「ちか」が生まれた。ちかはのちに婿養子を迎えて家を継ぐ。宗旦は父と同様、主に産科医として医療活動に従事したが、付近の子弟を集めて、漢学・手習なども教えた。俳諧や書画にも親しみ、江戸や下総国・常陸国の医師や文化人と交友を深めていた。天保14年(1843年)刊行の『下総諸家小伝』には、当時の優れた文化人の一人として、宗旦も紹介されている 。
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