医業の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 19:55 UTC 版)
1891年(明治24年)、東京・浅草に移って、診療所 「浅草医院」を開業した。同年東京医科大学に入り、1893年(明治26年)、あるいは1894年(明治27年)に卒業した。 医院は大繁盛となり、1894年(明治27年)には2件目の病院、東都病院を神田和泉町に開業した。男児がいなかった斎藤は跡継ぎを考え、同郷である山形県南村山郡の出身で成績優秀だった少年、茂吉を浅草の自宅に迎えた。1905年(明治38年)、茂吉を当時9歳だった次女・輝子の婿養子として齊藤家の籍に入れた。 1900年(明治33年)、斎藤は精神医学の修得を志してヨーロッパに留学した。ドイツ・ハレ大学でドクトル-メジチーネ(医学博士)を取得すると1902年(明治35年)12月に日本に戻ったが、帰国時の船では、英国留学からの帰途にあった夏目漱石が一緒であった。帰途の船に精神科医である斎藤が同乗していることを知った夏目の親族は、夏目が留学中に精神病を患ったのではと心配したという。 斎藤は帰国後、「ドクトル・メジチーネ・サイトウ・キイチ」と自称するようになり、また東都病院を精神病院に転換して、名称も「帝国脳病院」と改めた。
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