北但馬地震前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 08:07 UTC 版)
豊岡町長の由利三左衛門(任:大正7年11月~大正13年9月)と助役の伊地智三郎右衛門は、第一次世界大戦に伴う好景気(大戦景気)を背景に、円山川改修・丹但鉄道建設(2018年現在の京都丹後鉄道)・耕地整理・上水道の建設を柱に「大豊岡ノ建設」を目指し、その一環として寿ロータリーが建設されている。 しかし、由利による大豊岡構想は町の財政を著しく膨張させ、町民の租税負担も急速に増大した。そのため、町民からは町政批判が起こり、社会運動の背景となった。 豊岡町財政の膨張の要因として、豊岡尋常高等小学校校舎増改築が行われたことが挙げられる。1920年(大正9年)、当時の木造主流の中では珍しい鉄筋コンクリート造の増改築案が町会に提出され、承認された。この増改築は建物の老朽化という問題だけでなく、大豊岡構想及びその前史における政策にも起因している。豊岡町では1910年(明治43年)から毎年200人前後の人口増加が進んだため、1919年(大正8年)末までに約22%の人口増加となった。それに伴う児童数の増加によって小学校増改築の必要性が高まり、増改築案が作成された。これにより、1920年(大正9年)度の豊岡町歳出決算は前年度と比べて著しく増加した。
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