包頭の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 01:02 UTC 版)
「冬季攻勢 (1939-1940年)」の記事における「包頭の戦い」の解説
12月上旬から、綏遠省包頭(騎兵集団司令部の所在地)周辺では中国軍の出撃が頻発し、日本軍の警備隊と戦闘を交えていた。12月19日、騎兵集団は有力な中国軍部隊が包頭攻略を目指して西方から接近中という情報を得、翌20日朝に主力部隊で討伐隊を編成して西門から出撃した。しかし、この情報は巧妙な偽情報であった。 この時、北西門から便衣隊が一斉に侵入し、残留した日本兵との市街戦が始まった。駐蒙軍は救援を提言したが騎兵集団側は拒絶し、騎兵第1旅団を包頭に招致した。騎兵第13、第14連隊はそれぞれ独断で包頭の救援に向かったが、途上でいずれも中国軍に包囲され、騎兵第13連隊はその過半を失い、騎兵第14連隊長小林一男大佐は戦死した。空振りに終わった討伐隊は日没後包頭に帰還した。 翌21日から騎兵第1旅団は攻撃を開始したが、戦闘は進捗しなかった。駐蒙軍からの増援2個大隊も到着し、22日から騎兵集団は総攻撃を開始、23日中国軍は退却した。包頭に来襲したのは、五原を拠点とする第35軍(軍長:傅作義)で、日本軍は翌1940年1月から傅作義軍を撃破するために後套進攻作戦(五原作戦)を実行する。
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