勝常寺の創建について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 23:45 UTC 版)
勝常寺は徳一の創建といわれてはいるが、それを結びつける史料は皆無である。一方、慧日寺は、空海の伝記でもある『弘法大師行状集記』には空海の建立で空海が帰京するに及んで徳一に寺を譲ったとあるが、『今昔物語』などの諸史料から徳一が建てた寺であることはほぼ間違いがない。では、なぜ勝常寺に徳一時代の造立とされる仏像が多く残されているのだろうか。慧日寺が立地する場所は会津盆地東側の山中にあり、建立当時はおそらく人里から離れ、自然豊かで仏道修行に適した土地であったと想像できる。徳一はここで修行に励むために慧日寺を建立した。一方、徳一は会津の地に仏教(法相宗)を広める大衆教化の役割をも担っていた。そのためには、人里離れた山中にある慧日寺よりも交通の利便性があって人が集まりやすい土地で行う必要がある。勝常寺の建つ地は会津盆地の中央に位置し、まさにそれに適した場所であるといえる。つまり、徳一は会津の民衆への仏教教化を実践する場所として、会津盆地の中央に勝常寺を建立し、仏教的権威を民衆に示すために薬師如来像をはじめとした諸仏像を安置したと考えられる。
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