勝山合戦とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/19 06:41 UTC 版)
永正5年(1508年)10月4日、信虎は勝山合戦において信恵軍に大勝した(『勝山記』)。これにより信恵だけではなく、その息子の弥九郎、清九郎、珍宝丸や岩手縄美、栗原昌種、河村重家ら油川一族とその有力家臣の大半を葬り去った。小山田弥太郎・上条彦七郎は12月に信縄に対して再度反抗したが、12月5日に国中において戦死した。このため、工藤某と小山田平三は伊豆韮山に落ち延びて北条早雲を頼った(『一蓮寺過去帳』『勝山記』)。このため小山田家は弱体化し、永正6年(1509年)に信虎は小山田家の本拠・郡内に侵攻して同地を焼き払い、小山田方は大損害を被った。永正7年(1510年)春、小山田弥太郎の嫡子・小山田信有は事実上信虎に降伏する形で信虎に和睦を申し入れ、信虎は自らの妹を信有に嫁がせて両家の融和を図り、小山田家は武田宗家と実質降伏・形式同盟という形で婚姻従属同盟が成立した(国中・郡内合戦)。 この勝山合戦は、20年間に及ぶ武田宗家の内紛を事実上終結させる戦いとなった。この後も甲斐では武田宗家とそれに反抗する庶家、国人領主との間で内紛は絶えず発生し、それに付け込んだ外部勢力の侵略も受けるが、宗家の内紛に関しては信虎・晴信間で信虎追放が行なわれるまでは発生していない。その理由として勝山合戦で反信虎勢力が担ぎあげるべき旗頭が悉く戦死し、大義名分が反対勢力に消え失せたことが挙げられる。また信昌・信縄の共同統治で信恵ら反対派の勢力はかなり衰退していた事も一因として挙げられ、この合戦は武田宗家による甲斐統一の第一歩となった。
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