劉宗紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/26 22:45 UTC 版)
劉 宗紀(りゅう そうき)は、中華圏の人名。中華民国において、同姓同名の2名の著名人物が存在する。
- 劉宗紀 (湖北) - 本記事において詳述する。
- 劉宗紀 (河北) - 中華民国の官僚。生没年不詳。直隷省(現・河北省)河間県出身。南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会において、北京特別市公署社会局局長をつとめた。→劉宗彝の注釈4を参照。
劉宗紀 | |
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プロフィール | |
出生: | 1887年 [1] |
死去: | 没年不明 (1928年時点では存命) |
出身地: | ![]() |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 劉宗紀 |
簡体字: | 刘宗纪 |
拼音: | Liú Zōngjì |
ラテン字: | Liu Tsung-chi |
和名表記: | りゅう そうき |
発音転記: | リウ ゾンジー |
劉 宗紀(りゅう そうき、1887年 - 没年不明)は、清末民初の軍人・官僚。北京政府では直隷派の陸軍将官として各職を歴任した。後に冀東防共自治政府に参加したと見られる。ただし、冀東防共自治政府への参加については、上述した劉宗紀 (河北)である可能性が残ることに注意を要する(本文後述)。
事績
軍人としての経歴
日本に留学し、陸軍士官学校第21期(中国留学生第6期)を卒業した[2]。帰国後は北京禁衛軍参謀、江蘇都督府(後に督軍署)[注 1]参謀、馮国璋護衛司令[1]、江西督軍参謀長[注 2]、北京将軍府参軍[3][注 3]を歴任している。
1924年(民国13年)から1927年(民国16年)にかけて、劉宗紀は孫伝芳の五省聯軍総司令部で参謀長をつとめ[1]、孫が済南へ撤退した際には総参議に任命された[4]。なお、1918年9月16日に陸軍少将、1924年10月4日に陸軍中将、1926年10月9日に陸軍上将へとそれぞれ昇進している[3]。
親日政権での活動
以下の経歴については、劉宗紀 (湖北)のものとして、いったん記述する。ただし、劉宗紀 (河北)がこの経歴に該当する可能性もある。どちらの人物が該当するかについては、当時の文献でも見解が割れており、確定はできない[注 4]。
国民政府成立後の1935年(民国24年)、劉宗紀は河北省政府主席・于学忠の下で保安処副処長になった[1]。
冀東防共自治政府が成立した後の1936年(民国25年)1月、劉宗紀は自治政府保安処長に任命され[1][注 5]、満洲国への修好使節となった秘書長兼外交処長・池宗墨に随従して新京へ向かった[5]。1937年(民国26年)7月29日の通州事件勃発後、8月2日には劉は北平(北京)に在り、冀東防共自治政府臨時弁事処の治安組で執務を開始した[6][注 6]。
以後、劉宗紀 (湖北)の行方は不詳である。ただし、冀東防共自治政府に参加した人物が劉宗紀 (河北)の場合は、劉宗紀 (湖北)は北京政府崩壊後から行方不明ということになる。
注釈
出典
参考文献
- 高木翔之助編『冀東政権の正体』北支那社、1937年。
- 神田隆介著・東洋事情研究会編『冀東綜覧 北支経済資料 改訂増補』東洋事情研究会、1937年。
- 外務省情報部『現代支那人名鑑 改訂』東亜同文会調査編纂部、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
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