劉宗紀とは? わかりやすく解説

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劉宗紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/23 14:18 UTC 版)

劉宗紀
プロフィール
出生: 1887年[1]または1888年[2][3]
死去: 没年不明(1945年1月時点では存命)
出身地: 湖北省[1]または直隷省河間府河間県[2][3]
職業: 軍人・官僚
各種表記
繁体字 劉宗紀
簡体字 刘宗纪
拼音 Liú Zōngjì
ラテン字 Liu Tsung-chi
和名表記: りゅう そうき
発音転記: リウ ゾンジー
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劉 宗紀(りゅう そうき、1887年または1888年 - 没年不明)は、清末民初の軍人・官僚。北京政府では直隷派の陸軍将官として各職を歴任した。後に冀東防共自治政府や南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会に参加したと見られる。ただし、冀東防共自治政府前後の経歴については、同姓同名の別人の可能性が残ることに注意を要する(本文後述)。

事績

同姓同名の別人の可能性

劉宗紀の出身地につき、殷汝耕撰『冀東紀念専刊』巻上所収「冀東防共自治政府文武簡任人員姓名略歴表」(神田著、東洋事情研究会編(1937)も、この資料に基づき同旨の記述)は「河北河間」の人としており、後述する軍人の経歴を併記している。しかし、高木翔之助『冀東政権の正体』では「湖北省出身」としており、これに従えば、同姓同名の別人の可能性がある。

なお、楊承禧ほか編『湖北通志』には、劉宗紀の出身地につき記載が無い。記載があれば湖北省出身者のため、湖北省外の人物である可能性が高い[4]

軍人としての経歴

日本に留学し、陸軍士官学校第21期(中国留学生第6期)を卒業した[4]。帰国後は北京禁衛軍参謀、江蘇都督府(後に督軍署)[注 1]参謀、馮国璋護衛司令[1]江西督軍参謀長[注 2]、北京将軍府参軍[5][注 3]を歴任している。

1924年(民国13年)から1927年(民国16年)にかけて、劉宗紀は孫伝芳の五省聯軍総司令部で参謀長をつとめ[1]、孫が済南へ撤退した際には総参議に任命された[6]。なお、1918年9月16日に陸軍少将、1924年10月4日に陸軍中将、1926年10月9日に陸軍上将へとそれぞれ昇進している[5]

親日政権での活動

以下の経歴については、前述のとおり同姓同名の別人である劉宗紀の可能性があるが、いったん同一人物として記述する。

国民政府成立後の1935年(民国24年)、劉宗紀は河北省政府主席・于学忠の下で保安処副処長になった[1]

冀東防共自治政府が成立した後の1936年(民国25年)1月、劉宗紀は自治政府保安処長に任命され[1][注 4]満洲国への修好使節となった秘書長兼外交処長・池宗墨に随従して新京へ向かった[7]1937年(民国26年)7月29日の通州事件勃発後、8月2日には劉は北平(北京)に在り、冀東防共自治政府臨時弁事処の治安組で執務を開始した[8][注 5]

その後は長く在野にあったと見られるが、1943年(民国32年)2月に北京特別市公署社会局局長代理となり、華北政務委員会でようやく政界復帰した[9]。同年12月、華北政務委員会内務庁警政局局長代理に転じた[10]。翌1944年(民国33年)4月、華北政務委員会内務庁民政局局長代理に移ったが[11]、8月には警政局局長代理を暫時兼任している[12]1945年(民国34年)1月、民政局長と警政局長の双方につき辞表を提出して退官した[13]

以後、劉宗紀の行方は不詳である。

脚注

注釈

  1. ^ 当時の江蘇督軍は、馮国璋
  2. ^ 当時の江西督軍は、直隷派陳光遠
  3. ^ 高木(1937)、138頁では、1920年民国9年)から1922年(民国11年)にかけて、参軍の地位に在ったとしている。
  4. ^ 前任の保安処長は張慶余である。
  5. ^ 臨時弁事処には治安組を含む四組が設置され、総務組では張仁蠡、財政組では張志遠と江華、交通組では王厦材がそれぞれ執務を担当した。

出典

  1. ^ a b c d e f 高木(1937)、137-138頁。
  2. ^ a b 殷汝耕撰『冀東紀念専刊』巻上所収「冀東防共自治政府文武簡任人員姓名略歴表」。
  3. ^ a b 神田・東洋事情研究会(1937)、48-49頁。
  4. ^ a b 楊承禧ほか編『湖北通志』巻一三二 人物志十 選挙表十。
  5. ^ a b 中華民国政府官職資料庫「姓名:劉宗紀」
  6. ^ 外務省情報部編(1928)、347頁。
  7. ^ 『外交時報』78巻3号通号754号、1936年5月1日号、外交時報社、192-193頁。
  8. ^ 『同盟旬報』1巻5号、1937年8月上旬号、同盟通信社、201頁。
  9. ^ 華北政務委員会令、会字第918号、民国32年2月22日(『華北政務委員会公報』第191・192期合刊、民国32年2月28日、本会13頁)。
  10. ^ 華北政務委員会令、政字第200号、民国32年12月3日(『華北政務委員会公報』第259・260期合刊、民国33年2月9日、1頁)。
  11. ^ 華北政務委員会令、政字第1029号、民国33年4月20日(『華北政務委員会公報』第281・282期合刊、民国33年5月29日、2頁)。
  12. ^ 華北政務委員会令、政字第1615号、民国33年8月7日(『華北政務委員会公報』第301・302期合刊、民国33年9月9日、1頁)。
  13. ^ 華北政務委員会令、政字第1988号、民国34年1月20日(『華北政務委員会公報』第333・334期合刊、民国34年2月19日、2頁)。

参考文献

  • 高木翔之助編『冀東政権の正体』北支那社、1937年。 
  • 神田隆介著・東洋事情研究会編『冀東綜覧 北支経済資料 改訂増補』東洋事情研究会、1937年。 
  • 外務省情報部『現代支那人名鑑 改訂』東亜同文会調査編纂部、1928年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 



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