創設 - 競馬不況と連合二哩創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 08:53 UTC 版)
「優勝内国産馬連合競走」の記事における「創設 - 競馬不況と連合二哩創設」の解説
馬券の発売が禁止されるとすぐに、各地の競馬倶楽部は開催中止を余儀なくされ、次々と経営難に陥った。一般に当時の競馬倶楽部は、希望者が一口500円などの出資金を収めて会員となり、これらを集めたものが運営に充てられていたが、それだけでは賞金には程遠いので、馬券の売上から賞金を捻出していた。馬券がなければ賞金が出ず、賞金がでなければ馬主は出走させないし出走できる見込みがなければ馬が売れないので、各地の馬産地は深刻な不況に見舞われることになった。 実際にこの時代には競走への出走する頭数が激減し、日本全体で1レースの平均出走頭数が2頭以下となった。つまり、ほとんどの競走では1頭しか馬が出走しないということになる。競馬開催の大義名分が軍馬改良であったのに1頭だけでの競走(単走)では馬の選別改良が進まないため、軍部を後ろ盾とする馬政局は競馬に補助金を出すことになった。この補助金で1911年(明治44年)秋に創設されたのが優勝内国産馬連合競走である。
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