前黎朝への出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 07:52 UTC 版)
李公蘊は聡明にして学問を好み、その器は気宇壮大であった。幼い頃から六祖寺に学んだが、僧の万行(中国語版)は李公蘊の非凡ぶりを見抜き、いずれ名君として立つ者と予感した。 李公蘊は長じるに及んで経済や歴史を学び、やがて当時安南を支配していた前黎朝に出仕し、殿前軍として仕える。李公蘊は大行皇帝黎桓の娘黎氏仏銀(中国語版)を娶り、黎姓を賜った。 大行皇帝の没後、中宗黎龍鉞が即位するものの、ほどなくして弟の黎龍鋌に殺害され、皇位は簒奪された。群臣が皆恐れて四散逃亡する中、ただ李公蘊のみは中宗の遺体を抱いて慟哭していた。その忠義ぶりに感心した黎龍鋌によって、四廂軍副指揮使、さらに左親衛殿前指揮使に任じられた。 痔を患っていた黎龍鋌は臥したままで政務を執ったため、「臥朝皇帝」と綽名されたが、暴虐で過酷な統治に人心は離反した。そんな折、古法州延蘊郷(現在のトゥーソン市社タンホン坊(ベトナム語版))にある木棉の木が裂け、その中から一行の詩(ベトナム語版)が現れた。 樹根杳杳 禾刀木落 十八子成 東阿入地 木異再生 震宮見日 兌宮隠星 六七年間 天下太平 僧の万行は、「十八子」とはすなわち「李」であり、黎氏が滅んで李氏による国が興るとの寓意が込められたものと解した。万行はその「李氏」こそ李公蘊であり、彼が英邁なる君主として即位すると推察した。臥朝皇帝に害されることを恐れた李公蘊は、万行の手引きで蕉山に隠れた。一方、詩の寓意を知った臥朝皇帝は李姓の大臣を誅殺するものの、帝からの信頼篤い李公蘊のみは免れることができた。 この事件の後、李公蘊は皇位簒奪の野心を抱くようになる。
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