前黎朝の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 07:35 UTC 版)
黎龍鋌の暴虐なる振る舞いに政治は乱れ、人心は離反した。そんな中、民衆の間では「十八子」なる者が新たな王としてこの国を統べるとの噂が立ち始める。僧の万行(中国語版)は「十八子」とは「李」、すなわち親衛殿前指揮使の李公蘊だろう。彼こそが将来の名君だろうと予言する。この噂を聞きつけた黎龍鋌は李姓の大臣を誅するものの、李公蘊のみは信頼していたため死を免れることができた。 1009年、黎龍鋌は突如として崩じる。在位わずかに4年、24歳だった。黎龍鋌の暴虐に前黎朝の大臣らは離反し、皇太子の開封王黎龍乍はわずか10歳。この状況の中で、黎龍鋌の弟の黎龍鏦と黎龍鍉(ベトナム語版)の間で皇位をめぐる争いが勃発する。そんな中、李公蘊と右殿前指揮使の阮低(ベトナム語版)はそれぞれ500の兵を率い、殿中を護るとの名分で宮中に侵入した。文武百官や僧らは李公蘊こそ新帝にふさわしいと、新帝に推挙した。こうして李公蘊は即位し、翌年より元号を順天に改め、李朝を興した。かくて前黎朝は滅亡した。
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