利休との別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 01:25 UTC 版)
天正19年。「利休は大徳寺の門に自分の木像を置き、門を通る秀吉を足蹴にしている」という石田三成の讒言を受けた秀吉は、次第に利休と対立するようになる。利休の木像が河原に晒されているのを見た専好は不安を感じ、同様に事態の解決を模索する前田利家から、「秀吉に詫びるように利休を説得して欲しい」と依頼される。専好は利休の元を訪れて説得するが、「こうすることでしか、もう秀吉様を持て成せない」と返答され、専好は利休と別れる。その後、利休は切腹させられ、首は河原に晒された。ショックを受けた専好は花を生けなくなってしまい、彼の身を案じた吉右衛門は、利休の四十九日に合わせて人々から花を集めて、利休の供養を行おうとする。それを見た専好は再び花を生けるようになるが、その姿を三成に見られてしまう。三成は専好たち町衆の危険性を秀吉に伝えるが、秀吉は息子・鶴松に夢中で、三成の話を聞き流す。 利休の四十九日の後、鶴松が夭折して秀吉は落胆するが、京の人々は「利休の呪い」と噂して秀吉をからかう。専好は「利休さんは、人を呪うような人ではない」と反論して鶴松の冥福を祈るが、京の町には鶴松の死を揶揄する落首が至る所に貼られていた。秀吉は次第に狂気を見せるようになり、自分を「猿」と呼んだ少女や落首を詠んだと思われる人物を捕らえて処刑し、晒し首にしていった。その中には頂法寺に来ていた顔馴染みもおり、専好は悲観に暮れる。さらに、れんが秀吉の勘気に触れて処刑された絵師の娘であることが発覚し、れんは捕らえられた後に自殺し、彼女の行方を探っていた吉右衛門も謀反の罪で処刑される。親しい者が次々に殺されたことで専好は絶望するが、やがて生け花を通して秀吉の暴虐を諫めようと思いつく。
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