切磋団体から厚生施設へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)
「京都大学吉田寮」の記事における「切磋団体から厚生施設へ」の解説
1950年、理学部二回生の赤崎勇という学生が寄宿舎に入舎を希望した。赤崎はそれまで他の下宿に住んでいたが、経済的に困窮しており、大家から下宿料を請求されないほどだった。はたして寄宿舎は入舎を許可し、赤崎は3年間を寄宿舎で過ごした。卒業後は半導体の結晶成長と光電子素子開発に携わり、1989年に高輝度青色発光ダイオードを発明、2014年にノーベル物理学賞を受賞した。 赤崎は当時の吉田寮について次のように回想している。 「吉田寮は建物こそ古かったけれども、非常に立派な寮でした。当時は個室で部屋は廊下より一段高くなっていて、非常にいい雰囲気でしたね。私はクラッシックが好きなのですが、レコード室があったりクラッシックレコードを聴く部屋もあって存分に聴けました。ほかに茶室があったり、また各種の新聞を取り寄せてくれていて、ちょうど図書館のような役割をしていました。当時は守衛さんが2人いました。北、中、南寮三つあって、中寮に住んでいました。何号室か向こうに親友がいると夜まで話し込んでいても1分で自分の部屋に帰れる。事務室に事務員の方が3人ほどいて、サポートしてくれていました」 「よく寮の友達と一緒に桂離宮とか修学院離宮に行きました。当時、普通なら誰も行けなかったんですが、建築学の先生が紹介してくださったお陰でそういう所へ行けたり、あるいはみんなで比叡山を越えて琵琶湖へ渡ったり、いろんなことをしていました。勉強の面で特にプラスになったことはないかもしれませんけれど」
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