出生と仕官まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 16:56 UTC 版)
順天10年(1019年)、大越の都の昇龍(タンロン)寿昌県(ベトナム語版)太和(タイホア)坊(現在のハノイ)に生まれた。10世紀に呉朝を興した呉権の後裔であり、使君呉昌熾の曾孫にあたるという。ベトナムの銘文資料(中国語版)によれば、李常傑は「細江苟屚県」(現在のバクニン省トゥアンタイン県)の出身で、後に昇龍の太和坊に移籍したとされる。父の呉安語(ゴー・アン・グー)は李朝に仕え郎将の地位に上り詰めた廷臣である。李常傑は幼少時より「姿貌揚逸」、つまり容姿に優れ、騎射術の鍛錬を重ねて兵法を学んだ。青年時代より宮廷に仕え、通瑞3年(1036年)に亡父の同僚の計らいで騎馬校尉に任じられた後、乾符有道元年(1039年)、21歳の時に浄身(去勢)して宦官となって乾符有道3年(1041年)に皇宮に入り、侍衛および黄門祗候に任じられた。 龍瑞太平元年(1054年)には聖宗の即位を扶翼した功で奉行軍校尉、後に検校太保、そして彰聖嘉慶3年(1061年)には清華・乂安などの地の察訪使となり、芒族の反乱を鎮圧した。
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