処州を治める
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/14 08:32 UTC 版)
中書分省から、浙東行中書省と改められ、胡深は行省左右司郎中として、処州の統括を行った。この時の処州は、山寇がはびこり、人心は落ち着かなかった。胡深は募兵で万余の兵を集め、頭目らを捕らえ、または斬ったりした。沿海にも抵抗する軍があったが、頭目数人を斬り、処州は平穏となった。 1363年3月、処州翼総制として「市場の税は旧例では20分の1となっています。現在は塩の値段の10分の1となっており、税額が重くなっています。このため、商人は塩を売らずに塩の流通が滞り、軍の蓄えが欠乏し、江西、浙東の民は食用の塩にも事欠くほどです。また、硫黄、白藤、蘇木、棕毛などの諸物も現在の税額は15分の1であり、これにより物の流通ができない恐れがあります。これらの税を従来どおり20分の1とすれば、物の流通がよくなり、軍の蓄えも充たせます」と進言して容れられた。9月、張士誠に寝返った謝再興が兵を率いて、東陽に攻め込んだ。左丞・李文忠は、武将・夏子實、処州から来援した胡深に前鋒を命じ、義烏で戦った。1千騎を敵陣の側面を突かせ、謝再興を敗走させた。胡深は諸全は浙東の藩屏であり、50里離れた五指山に新城を築き、諸全と呼応させることを建議した。朱元璋は謝再興が寝返ったことを聞き、李文忠に使いを送り、胡深の案を伝えた。李文忠は胡深の案を用いて五指山に新城を築き、兵を分けて守らせた。その後、張士誠の将・李伯升が16万の兵を率いて攻めてきた。李伯升は新城を落とすことができず敗退した。翌年、張士誠が20万の兵で新城を攻めたが落とすことはできなかった。朱元璋はこの功績を褒め、胡深に名馬を賜った。 1364年1月、朱元璋が呉王となると、胡深は王府参軍となり、引き続き、処州を守った。温州の豪族・周宗道が人々を集めて平陽に割拠していた。温州を守っていた方国珍の従子・方明善が周宗道に圧力をかけていたため、周宗道は平陽を明け渡し、朱元璋に降伏した。9月、方明善は怒り、平陽を攻めた。周宗道は胡深に救援を求めた。胡深は軍を差し向けて、方明善を破った。瑞安を攻略し、温州へ進軍した。方国珍は懼れ、銀3万を贈ることを申し出て、ただちにこれを贈った。これを容れた朱元璋は詔で、胡深に軍を引き揚げるよう命じた。胡深は処州に戻り、再び守りについた。
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