再統一から滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/12 02:15 UTC 版)
1264年のソーメーシュヴァラの死後、ナラシンハ3世とラーマナータは互いに反目したため、南北に分かれたドーラサムドラとカンナヌールとの争いが発生し、その間にヤーダヴァ朝やカーカティーヤ朝、パーンディヤ朝の攻撃もあった。だが、1300年前後に、ナラシンハ3世の息子バッラーラ3世がカンナヌールのヴィシュヴァナータを滅ぼし、南北に分かれた王国を再統一した。 しかし、当時の北インドでは強力なハルジー朝が興り、スルターンのアラー・ウッディーン・ハルジーは名将マリク・カーフールに南方遠征を行わせた。彼は1307年にヤーダヴァ朝の首都デーヴァギリを落とし、その後、1309年にカーフールはカーカティーヤ朝の首都ワランガルを落としたのち、1310年(1311年2月とも)にはホイサラ朝の首都ドーラサムドラも落とした。バッラーラ3世は和議を結び、莫大な財宝を際出しただけではなく、毎年の貢納にも応じた。 ホイサラ朝は1320年にハルジー朝が滅亡すると一時独立したものの、1323年にトゥグルク朝のウルグ・ハーンに遠征軍がやってくると、ワランガルとマドゥライを落とし、再服従させられた。 とはいえ、ホイサラ朝は屈従を強いられながらもかろうじて独立を保ち、一定の勢力を維持し続けた。1334年以降、トゥグルク朝に対して各地で起きた反乱に呼応したが、その過程で出来たヴィジャヤナガル王国とは敵対した。 だが、バッラーラ3世は1334年にトゥグルク朝から独立した南方のマドゥライ・スルターン朝との激しい抗争の末、1342年にカンナヌールでのマドゥライ軍との戦いに敗れて戦死して、50年にわたる長い治世を終えた。 その後、子のバッラーラ4世も数年間抵抗を続けるが、1346年にヴィジャヤナガル王国との戦いで戦死し、ホイサラ朝は滅亡した。
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