公田掠領騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 15:40 UTC 版)
建久5年(1194年)5月、祖父・宇都宮朝綱が下野国司の野呂行房より公田掠領(百余町)を訴えられ、朝廷によって豊後国国府預かりの身と裁定されてしまう。これは、征夷大将軍でもなかった源頼朝が、名目上では自身のみの采配では配下への扶持等を決裁できなかった時期に、朝廷の決裁を仰がず頼朝が単独で部下の所領配分を行ってしまったために起きた騒動であり、頼朝はこの件を大変憂慮したと云われている。鎌倉の勢力と行動を共にしていた頼綱ら関東の武人達は、名目上は朝廷に直接仕える身であったとはいえ、実際には源頼朝勢の意向に従って行動しており、実質、朝廷の命令であってもそれに実効力を与えていたのは源頼朝であったことから、一説によると頼綱らは頼朝の意向に従い配流地には赴かなかったとも云われている。 何れにせよ、頼朝の働きかけにより頼綱は早々に赦免され、同じく赦免された祖父・朝綱は出家して下野尾羽にて隠居生活を送ることとなり、このとき頼綱が宇都宮家を継いだものと考えられる。頼朝の死後、頼綱は正治元年(1199年)6月に夭逝した頼朝の次女・乙姫の葬儀に供奉し、その10月には他の有力御家人と共に梶原景時の変で景時弾劾に参加している。その後、元久元年(1204年)ころ、伊予国の守護職を与えられた。
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