公営競技場建設計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:00 UTC 版)
「多摩川スピードウェイ」の記事における「公営競技場建設計画」の解説
またこのころ、この場所を公営競技場として使用する計画が持ち上がり、1949年にはオートレースの創設を目指して結成された日本小型自動車競走会(後の日本小型自動車振興会、現在のJKA)の主催により、戦後初の『全日本モーター・サイクル選手権』が開催されている。 しかし当時既に競輪競技が創設されていたうえに、翌年の1950年10月に千葉県に船橋オートレース場がオープンしたため、代わりに競輪場を建設する方向で神奈川県などの自治体が動きを見せていたが、河川敷における水害の心配や、地理的に近隣にある川崎競輪場などとの競合が懸念されたことから、結局この話が実現することはなかった。 さらに、連合国の1国として関東地域の占領業務にあたっていたアメリカ軍の将校などが横田基地のエプロンや滑走路でジムカーナなどを開催し始めると、日本における自動車レースの活動の中心がそれらに移ることとなる。なおこのようなアメリカ軍基地内でのジムカーナは、1952年に日本が連合国軍の占領を脱した後の1960年代に至るまで開催されていた。
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