八女中学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 14:00 UTC 版)
1905年(明治38年)4月、北山村立北山尋常小学校から福岡県立八女中学校へ進学。自宅から町の中学まで、実に約二里(8キロ)ほどの距離があったため、当初は寄宿舎へ入れられたが、中学3年の時より寄宿舎を出て、自宅から通学しはじめる。特に雨が振り、地がぬかるむ日は、一張羅の長靴をぶら下げ、裸足で急いで学校まで走ったという。そして、後にこの時の経験が、彼の強靭な健脚を鍛え上げ、後年、画家になり、「山岳画家」と呼ばれる礎になったとされている。ゆえに老年、病気にならずに済んだのは、この時の経験の賜物であったと述懐している。また、この時、田崎の絵の才能を見込んだ恩師の強い期待と推薦により、美術学校を志願するが、父・作太郎の反対に遭い、くしくも断念することを余儀なくされたという。
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