八上・神尾山両城の戦い
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「桂川原の戦い」の記事における「八上・神尾山両城の戦い」の解説
香西元盛は管領細川高国の家臣だったが、同族の細川尹賢の讒訴を信じた高国によって、大永6年(1526年)7月13日に自害させられた。これに対して香西元盛の2人の兄弟波多野元清と柳本賢治は元盛が自害させられたことを知り、丹波八上城・神尾山城両城で反旗を翻した。 10月23日、これに驚いた高国は、神尾山城に総大将の細川尹賢軍を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、それぞれの城を包囲した。また、10月28日には将軍義晴の名で若狭の守護である武田元光に救援を要請する使者を送っている(『実隆公記』)。 その後、小規模な戦闘が続いていたが、波多野元清に同情的であった丹波守護代・内藤国貞は、11月5日に神尾寺城の包囲軍から離脱した。また、11月30日に黒井城主赤井五郎が3000の兵を率いて神尾寺城包囲軍の背後から攻撃し、赤井軍にも損害がでたが、包囲軍を破っている。 この敗報を知った八上城の包囲軍も翌12月1日囲みを解いて退却した。この退却の途中、阿波守護細川晴元と通じていた池田弾正は瓦林修理亮らに矢を射かけ、細川尹賢軍は京へ逃走した。
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