儀式と慣例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 21:02 UTC 版)
イングランド王家の王太子を示す称号「プリンス・オブ・ウェールズ」は、ウェールズを平定したエドワード1世が1301年に息子エドワードにこの称号を与えたことに始まる。有名な伝説によると、1284年、イングランド支配を快く思わないウェールズの諸侯らを前に、エドワード1世は赤子のエドワード王子を見せ、ウェールズで生まれ、英語を話さない王子であるとして一同を賛同させたといい、同時にウェールズの諸侯らは悔しい思いをしたという。ウェールズの大公(プリンス・オブ・ウェールズ)は、ウェールズで生まれ、英語を話さず、一度も罪を犯したことのない者とされていた。しかしこの物語は出所が疑わしく、16世紀にこの記述があるのみである。1301年、エドワード王子は17歳であった。エドワード2世が、父王のウェールズ遠征中にカーナーヴォンで生まれたことは事実である。ちなみに、当時イングランド(アングリア、「アングル人の住む土地」の意)宮廷で話されていたのはアングロ=ノルマン語であり、英語ではない。 1911年7月13日、カーナーヴォン城はプリンス・オブ・ウェールズ叙位式典の舞台となった。この時のプリンス・オブ・ウェールズは、後のエドワード8世である。それまでのプリンス・オブ・ウェールズは、叙位証書一枚で任じられるものに過ぎず、過去に式典が行われたことはなかった。エドワード王子は1910年6月に叙位証書を受け取っており、プリンス・オブ・ウェールズとしての地位に何ら問題はなかったが、時の財務大臣を務めていたウェールズ出身のデビッド・ロイド・ジョージが、ジョージ5世に式典開催を強く進言したことから実現することとなった。叙位式典の前例がないまま、式典全体を指揮したのは紋章院総裁の第15代ノーフォーク公ヘンリー・フィッツアラン=ハワードである。式典でのエドワード王子の答辞はすべてウェールズ語で行われ、それを聞く地元ウェールズ代表らやウェールズ人たちを感動させたという。1969年7月1日、チャールズ皇太子がカーナーヴォン城内で叙位式典を行った。2日後の7月3日、チャールズ皇太子により、これを祝してスウォンジーがシティの位に格上げされた。21世紀までにこの称号は21人に授けられ、13人が王位に就いているが、現在のところ、カーナーヴォン城で叙位式典を行ったプリンス・オブ・ウェールズは以上の2人のみである。
※この「儀式と慣例」の解説は、「カーナーヴォン城」の解説の一部です。
「儀式と慣例」を含む「カーナーヴォン城」の記事については、「カーナーヴォン城」の概要を参照ください。
- 儀式と慣例のページへのリンク