供用開始から崩壊まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:29 UTC 版)
大防波堤を築き、波浪を防ぐとともに大型船用の外港を建設する事を建設中からファン・ドールンは提案していたが、巨額の予算が必要となる事から実現がほぼ不可能な事も同時に理解していた。その結果、大型船は野蒜港に接岸できず対岸の宮戸島の潜ヶ浦(北緯38度20分58.8秒 東経141度9分28.5秒 / 北緯38.349667度 東経141.157917度 / 38.349667; 141.157917 (潜ヶ浦))に停泊したが、艀の使えない荒天時には他の港が利用された。さらに1883年(明治16年)以降は港を利用するのはほとんどが石巻・塩釜間を往復する小型船となった。 野蒜築港の突堤は、1884年(明治17年)9月15日の台風に伴う暴風雨で崩壊した。野蒜の測候所での観測によれば、当日14時には海から南東の風が吹いており風力は4だった。台風が宮城県沖にあった21時には、平均風力5の陸からの北風が吹いていた。この時の中心気圧は991.9hPaであり、付近を通過したときも台風は大型だったが、風は特別強くはなかった。 この年の野蒜は2-3月、9月、11月に風速が8m/sを超えて疾風や雄風となっていた。特に9月は海岸と鉛直方向に平均風速4.9m/sの風が吹いていて、最高風速は20m/s以上にもなっている。これらの事から、春先や前年までの冬季の強風による強い波浪によって突堤に疲労が蓄積し、前記の台風によって一気に崩壊した可能性が高いと考えられている。
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