佐双定雄
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佐双 定雄(さそう さだお、1891年(明治24年)2月3日[1] - 1928年(昭和3年)5月5日[2])は、明治時代から昭和時代の華族(男爵)。造船技師。位階は従四位。
生涯
1891年2月、海軍造船総監を務めた佐双左仲と母・嘉弥の長男として生まれる。1905年10月9日、父が卒去したことにより、家督を相続した。1907年、造船に尽力した父左仲の勲功により、16歳にして華族に列し男爵を授けられた。1917年、東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。三菱造船会社の長崎造船所技師となった。その後横浜船渠会社に勤務した。
定雄が1928年に死去した後、1931年選定により、細川立興子爵の次男の立業が男爵家を継いだ。立業は1920年からアメリカに渡り、イギリスやフランスにも留学し、留学期間は6年にも及んだ[3]。
家族
- 妻:弥栄子(陸軍少将山口圭蔵の二女)1900年4月 -
- 姉:晴子(北海道人東条国太郎の妻)1881年4月 -
- 妹:久子(学習院女学部卒。群馬水電の常務取締役の浅見省吾妻)1896年4月 -
- 妹:和嘉子(学習院女学部卒。工学士、湯浅蓄電池製造所の代表取締役の杉山寅三郎妻)1898年11月 - [4]
- 養嗣子:立業(細川立興子爵の次男) 1898年 - 1976年
- 立業妻:小枝子(芝区宇田川町の増沢デパート経営者の増沢棟造長女)1909年7月 -
脚注
- ^ 『華族名簿 大正5年3月31日調』華族会館、1916年、p.171。
- ^ 『官報』第406号、1928年5月8日。
- ^ 『人事興信録第15版 下』人事興信所、1948年、補遺19頁。
- ^ 人事興信録第8版 佐双定雄
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 佐双家初代 1907年 - 1928年 |
次代 佐双立業 |
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