佐伯米子とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 美術家 > 画家 > 日本の画家 > 佐伯米子の意味・解説 

佐伯米子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 19:17 UTC 版)

佐伯 米子
本名 池田米子
誕生日 (1903-07-07) 1903年7月7日
出生地 日本 東京府東京市京橋区銀座尾張町
死没年 1972年11月13日(1972-11-13)(69歳)
死没地 日本 東京都渋谷区
国籍 日本
配偶者 佐伯祐三
芸術分野 洋画家
教育 東京女学館卒業
受賞 サロン・ドートンヌに入選
第21回二紀展文部大臣奨励賞受賞
会員選出組織 二紀会絵画部理事(1949年)
影響を受けた
芸術家
川合玉堂
モーリス・ド・ヴラマンク
テンプレートを表示

佐伯 米子(さえき よねこ、1903年7月7日 - 1972年11月13日)は、大正-昭和期の洋画家

生涯

東京府東京市京橋区銀座尾張町(現東京都中央区銀座)出身。旧姓は池田。東京女学館卒。川合玉堂日本画を学ぶ。

1921年佐伯祐三と結婚。1923年夫とともにフランスにわたり、モーリス・ド・ヴラマンクに師事。1925年「アルルのはね橋」がサロン・ドートンヌに入選。

1926年2月帰国し、13回二科展に出品し、5点が入選した。

1927年9月再び渡仏。1928年8月、夫祐三と娘弥智子がフランスで相次いで死去。1928年10月帰国。

1946年三岸節子らと女流画家協会を創立。1949年より二紀会絵画部理事。1967年、第21回二紀展文部大臣奨励賞受賞[1]

没後

1995年11月に、佐伯米子がかなりの数の佐伯祐三作品を加筆して仕上げていた事実を自ら告白している書簡が見つかったことが報道される。見つかった書簡は吉薗周蔵宛で全部で11通。筆跡鑑定人が鑑定を行い、米子が佐伯祐三の友人の洋画家荻須高徳にあてた昭和6年3月25日付けの書簡と比較した結果、同じ米子の筆跡と判明。米子は佐伯祐三を「秀丸」と幼名で呼び「秀丸そのままの絵ではだれも買っては下さらないのです。私が手をいれておりますのよ 秀丸もそれをのぞんでおりましたし」と、佐伯祐三の同意を得て加筆していた事を主張。具体的な加筆方法についても説明している[2][3]

脚注

  1. ^ 一般社団法人二紀会”. 2015年10月14日閲覧。
  2. ^ 「「祐三の絵に私が加筆」 故佐伯夫人の書簡発見 支援者に遺作の譲渡懇願 作家像の見直しも」『共同通信』共T552社会035、1995年11月11日。
  3. ^ 「「佐伯祐三の絵に加筆」 故夫人、書簡で告白?」『福井新聞』1995年11月12日。

出典

  • 佐伯米子”. 東京文化財研究所. 2015年10月14日閲覧。



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「佐伯米子」の関連用語

佐伯米子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



佐伯米子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの佐伯米子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS