佐伯祐三との親交について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 06:33 UTC 版)
「吉薗周蔵」の記事における「佐伯祐三との親交について」の解説
吉薗周蔵は、東京美術学校への裏口入学を斡旋した佐伯祐三と親交する。 アヘン製造で多額の蓄えを持っていた周蔵に対し日々金を無心してきていた祐三であったが、周蔵は金に頓着することなく返済の見込みのない金を貸し続けていた。周蔵の妻となった池田巻は、祐三の絵画を買い取る形で資金を融通するようになったので、吉薗家には佐伯祐三の直筆絵画が多数収蔵されることとなった。なお、メニエール病の持病を持つ祐三に対し、周蔵はその持病を逆手にとって祐三にしか描けない画風を持ち味にすることをアドバイスし、この画風が祐三の特徴となった。この辺りのことも手記に顛末が記されている。 周蔵が祐三の渡仏の費用も工面してくれたことで祐三は渡仏するが、性格にムラのあった祐三の絵画の仕上げを妻の佐伯米子が行い、米子の手が入った絵画の方がフランスで評価されることとなった。後年、周蔵の一人娘であった吉薗明子が、河北倫明のサポートを受けて武生市に両親が祐三からもらっていた絵画を寄贈しようとした際に、佐伯祐三贋作事件を起こされてしまう。これは、すでに米子の手が加わった祐三の絵画が市場価値を得ていたので、その価値が暴落するのを嫌った人々が吉薗明子の所有する絵画を贋作とされるように仕向けた事件であった。
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