佐伯祐三の美術学校への裏口入学仲介とアリバイ作り
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「吉薗周蔵」の記事における「佐伯祐三の美術学校への裏口入学仲介とアリバイ作り」の解説
大正6年(1917年)8月初め、上原から築地本願寺へ行き、話しを聞いてくるように言われる。築地本願寺からの依頼は、佐伯祐三を東京美術学校(現・東京藝術大学)に裏口入学させてほしいというものであった。周蔵は海軍と関係が深い若松安太郎を通じて山本権兵衛に裏口入学を依頼。若松より何とかなりそうだという回答を得た周蔵は、これを本願寺に伝えると、最大の頼み事として佐伯の裏を作って欲しいと更なる依頼を受ける。周蔵は佐伯なる人物が本願寺の諜報員である事を察したが、深くは立ち入らなかった。 9月16日に佐伯と会った周蔵は、ものの考え方がかなり変わっている佐伯をどうすべきか迷うが、呉秀三や藤根大庭と相談した上で、周蔵が開設した癲狂院の派出所「救命院」の客の1人として本人の望むよう診察日誌に記帳する事とした。 大正7年(1918年)佐伯は東京美術学校に合格。
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