今橋城築城と攻防とは? わかりやすく解説

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今橋城築城と攻防

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 09:21 UTC 版)

牧野古白」の記事における「今橋城築城と攻防」の解説

永正2年1505年)、今川氏親西三河松平氏抑えるため、一色城の古白のほか、真木氏岩瀬氏、能勢氏稲垣氏山本氏等に、豊川朝倉川合流地点南岸(現、豊橋市今橋町)に今橋城現在の豊橋公園に当たる)を築かせた。当時今橋城本丸は、現在の城内の藩祖豊城(とよき)神社辺り吉田城金柑丸)であったとされる。城の大手門東側であり、1km半ほど先に有る二連木城向いていた。 このことから、宝飯郡拠点を持つ古白の築城目的一つは、もとは京の幕府政所執事伊勢貞親被官三河守護・細川成之要請受けて寛正6年1465年)に発生した額田郡牢人一揆鎮圧した後に渥美郡統一をして着々と勢力拡大する二連木城戸田宗光(全久)と対峙することであったとも推定されている。 築城後、古白は初代城主となるが翌永正3年1506年)に、今川氏親戸田氏によって今橋城攻められ、古白は討死自害とも)する。戦後今橋城には、戸田宣成が入る(今橋合戦)。なお、この時に今橋城攻めたのは松平長親であるという異説もある(「寛政重修諸家譜巻第三六十二・田口/牧野」古白の項)。 古白が弔われた吉田山龍拈寺りゅうねんじ、愛知県豊橋市新吉町)は、古白の子・信成(関宿藩主の牧野信成とは別人)が亡父菩提を弔うために建立した。同寺では11月3日命日としている(諸説あり)。

※この「今橋城築城と攻防」の解説は、「牧野古白」の解説の一部です。
「今橋城築城と攻防」を含む「牧野古白」の記事については、「牧野古白」の概要を参照ください。

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