京都遊学~寺院開山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/01 15:36 UTC 版)
「日進 (身延3世)」の記事における「京都遊学~寺院開山」の解説
日進は若い頃から滋賀県の比叡山延暦寺や京都で学び宗派の教義を研鑽した。幼少期の名は日心、次いで日真と改め、のちに日進と称した。 身延山久遠寺が大正12年(1923年)に編纂した「身延山史」の中には、「身延山略譜」に日進が甲斐国(現・山梨県)にある身延山久遠寺の支院・正法院竹之房3世を勤め、駿河国(現・静岡県中東部)で竹養山正法寺を開山したとある。正法寺由緒では慈眼法印という僧の真言宗の道場だったが、建治3年(1277年)柚野の里で足を痛めて湯治した日進が、法論で法印を折伏して、道場を身延山久遠寺直末の正法寺にしたとされる。 また江戸後期に幕府が編集した地誌『新編武蔵風土記稿』には、日進が武蔵国葛飾郡東一之江村(現・東京都江戸川区一之江)の江久山感應寺を開山したとある。感應寺も元久2年(1205年)に空念が開いた真言宗の寺だったが、正応元年(1288年)各地で日蓮の教えを説いていた日進が空念と法論し、感應寺を日蓮宗に改宗したと伝わる。感應寺はその後、下総の中山法華経寺の末寺で中本寺となっている。
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