京大事件(滝川事件)から終戦まで
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「末川博」の記事における「京大事件(滝川事件)から終戦まで」の解説
1933年 - 滝川事件が起こり京都帝国大学を依願免官、次いで、恒藤恭とともに大阪商科大学(現・大阪市立大学)専任講師となる。末川自身は「この事件は滝川幸辰個人に加えられた弾圧ではなく、日本の学問の自由と大学自治に加えられた弾圧だったから京大事件と呼ぶべきだ」と語り、大隅健一郎・田畑茂二郎・勝本正晃などの京大教授経験者は京大事件と称している。 1935年 - 竹田省と共に共同責任編集で民商法雑誌を創刊。 1936年 - 同志社大学法学部の嘱託講師を兼任するも文部省思想局長伊東延吉の圧力により解職される。 1940年 - 大阪商科大学教授となる。 1943年 - 村田省蔵駐フィリピン大使により比島調査委員会委員に任命され、フィリピンの占領地調査の法制度調査に従事。
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