亡命・死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 02:12 UTC 版)
1997年5月7日から8日にガボンで、ザイール情勢を協議するため「中部アフリカ仏語諸国7ヶ国首脳会議」が開催され、モブツも出席した。モブツは、本会議で健康上の理由で次期大統領選挙には出馬しないことを確認する声明を発表した。 5月16日、キンシャサに戻ったモブツは突然北部のバドリテにある宮殿に逃れ、国会議長モンセングォ司教率いる内閣に権力が移譲され、モブツは一切国政に関与しない旨の発表をした。5月17日AFDL軍はキンシャサに入城し、カビラ議長はルブンバシから「コンゴ民主共和国」の樹立と国家元首就任を宣言した。 5月18日にモブツはモロッコのラバトへ向けて出国し、9月7日に亡命先のモロッコで死去した。 全体主義、権威主義と民族主義の性格を併せ持つモブツの思想はモブツ主義(英語版)と呼ばれ、モブツと敵対したルムンバのルムンバ主義と対比され、ブラックパンサー党の指導者であるヒューイ・P・ニュートンや歴史家のE・H・カーらはモブツをファシストと看做すも、今日のコンゴでもモブツの息子ンザンガ・モブツの結成したモブツ主義民主連合(英語版)は議席を獲得するなど一定の支持を集めてンザンガはジョゼフ・カビラ政権に入閣して一時与党の一つにもなった。
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