亡命、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/02 01:36 UTC 版)
「ゲオルギ1世テルテル」の記事における「亡命、晩年」の解説
1292年にゲオルギ・テルテルはノガイから圧力を受け、ビザンツに亡命した。最初ビザンツ皇帝アンドロニコス2世はモンゴルとの関係の悪化を恐れてゲオルギの受け入れを拒否し、ゲオルギはアドリアノープル(エディルネ)の近郊で受け入れを待たされていた。最終的にゲオルギはアナトリア半島に送られ、その後の10年間どのような人生を送ったかは明らかになっていない。 1301年、ブルガリア皇帝に即位したテオドル・スヴェトスラフはビザンツ軍を破り、ゲオルギの返還を要求するための人質として、13人の高官を捕獲した。 帰国したゲオルギはテオドルに対する発言力を持たなかったが、息子から与えられた町で裕福な余生を送った。イヴァノヴォ近郊の教会には、1308年(1309年)にゲオルギが没したと簡潔に記された碑文が納められている。
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